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はいずる翼 92
一瞬、へにゃりとした笑顔が固まって……すぐに動き出す。
「あ、あは……」
笑いを形作るのに失敗して、笑い声にならなかった短い音だけがミクの唇の隙間から這い出して来る。
シャツを握っていた手に力が込められていき、真っ白に血の気を失って震えて……
「ミクちゃんが、大事や思ったから心配になったんよ」
「 ぁ、ぇ、 で、も 」
「オレにできることはあるんかな? 例えば……ミクちゃんをお風呂に入るように勧める役とかどうやろか?」
ぱちん とウインクをしてみせると、感情を上手く操れないままぽかんとしていたミクがはっと飛び上がった。
「す、すみません! 玄関先で立ち話なんて、中でお茶でも 」
そう言ってミクの言葉は途切れてしまった。
ぐっしょりと濡れた服を見下ろして、恥ずかしそうに俯く。
「あ……その、今はちょっと良くなくて……」
「お風呂入ってき」
「え⁉」
「その様子やったら、片づけ先にしてたんやろ? オレが続きしとくから」
オレの言葉に、ぐっと何かを飲み込むようにミクは唇を引き締める。
溢れる涙を堪える様子は、意地を張る小さな子供が精いっぱいの虚勢をはって見せているかのようだった。
「オレが片づけておいたげるから、行っておいで」
止めるのも聞かずに部屋に入り込むと、落ちている水滴を頼みにミクがいた部屋へと向かう。
そこはミクと一緒に朝食を取った台所だった。
嗅ぎ慣れないよその家の匂いが強くなって、足元には陶器の破片が散らばっていた。
地震……が、あったようだと言ってしまうのは乱暴かと思ったが、それがしっくりくる。
もしくは誰かが大暴れをしたか……
「……ミクちゃんのおかんか」
養子とはいえ自分の息子を忘れている彼女の認知症の進み度合いは自分ではわからなかったが、軽いとはいえないくらいなんだろう。
やつれてクマを作ったミクを見ていて、認知症の母親を支えながら生活しているミクの苦労を垣間見た気がした。
母の面倒を見つつ、会社員として働いて……たった一人で、相手をし続けている。
親と縁の切れてしまった自分には関係のない世界の話だと学びもしなかったのが悔やまれる。
もう少ししっかりと知識があればミクの力にもなれたのに!
「みなちゃ っ酷いでしょ? 危ないからやっぱり今日は帰って 」
「ここまで来たんやから別にええ、掃除は好きやしな」
そう答えて辺りを見回し、ほうきとちりとりを見つける。
大きな欠片は手で拾ってしまいたかったけれど、ミクが危ないからそれだけはやめてくれって言うから仕方なくほうきで根気よくちりとりに入れた。
水分のあるところは、液体と形の崩れた味噌汁とワカメが見えるから味噌汁を入れていた器が割れたんだろう。
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