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はいずる翼 95

 ミクは、今度は曖昧な笑顔を作らなかった。  ただ表情が消えたままの静かな顔で前を見つめ、口をまっすぐに引き結ぶ。 「……オレは  」  可哀想にと同情するのも、オレの家も酷かったと共感するのも違うとわかる。  ミクは過去をなかったことにしようとはしていなくて、真っ直ぐに過去を見ているようだった。  だから、オレができることは細い体を抱き締めてミクがもたれられるようにすることだけだ。 「つかたる市のオメガシェルターが始まったばかりで、そこでずいぶんと助けていただいたんです。けどシェルターはベータの母は入れなくて……母は、安全なシェルターに入って欲しいと言ったんですけど、僕が母と離れたくなかったから」  にっこりと笑うミクの目じりから小さな雫が一滴だけ零れる。 「でも、今……すごく幸せなので、いい選択をしたと思っています」  自らの判断で手にした幸せなのだと胸を張って言うミクは、くたびれを見せていたけれど幸せそうだった。 「僕は母の息子だったし、母は僕のお母さんだった。だから、きちんとしてあげたくて  」  ちらりと視線が動き、寝ている母親がいる方を見る。  飾りのように睫毛に雫をつけた両目が瞬いて、慈愛に満ちた微笑みを形作る。 「だから、  すみません、こうやって気にかけてきてくださったのに、僕はもうお店に窺えないんです」 「え  」 「母をいい施設に入れてあげたくて。以前から話し合っていたところなんですけど   」  ミクは視線を動かし、俯いて自分の手を見つめた。  必要最低限の爪が切られただけの、少し荒れた生活するための手だ。 「お恥ずかしい話ですが、資金が潤沢とは言い難くて   」  オレの方に向き直ったミクはへにゃりとした失敗した笑顔に戻っていた。 「今まで、ありがとうございました」    どうしてそんなことを言うのか。  とっさに「なんで⁉」と声をあげようとしたけれど、再び腹がしくりと痛む。  いや、そんな控えめな痛みなんかじゃなくて、悲鳴を堪えるために唇を噛みしめなくてはならないほどだった。  今まで感じたことのないような痛みに言葉が出ず、奥歯がぎしりと音を立てる。 「せっかく来てくださったのにすみません。タクシーを呼びますね」  痛みに顔をしかめ、黙りこくったオレの様子を怒りと取ったのか、ミクは気まずそうに腕から抜け出して深々と頭を下げた。  そんなことをして欲しかったんじゃないし、怒ってもいなかった。  なのに自分の心の内を口に出そうとするたびに腹の中で何かが苦痛を与えてくる。 「  っ」  思わず痛みに腹に手を当てた瞬間、指先に感じたのは赤い花で覆い隠した帝王切開の痕だった。

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