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はいずる翼 99
『僕 は、ただの、 客、でしょ?』
さっと引かれた線引きは、普段なら自分から引いていたはずの線だった。
ビジネスなのに勘違いする客は困るし気持ち悪くて嫌悪の対象で……無理やり手渡されるプレゼントも金も要らないと突っぱねていた。
その立場が逆転しただけなんだ と、ミクが引いた線の前に愕然とする。
婚姻届を手に迫ってきた客を思い出しながら、「そうやね」とぽつんと返事をした。
せめて包丁を振り回した客のようにはなりたくなかったから、「ごめん」と言葉を続けて……
「ホンマやな。出過ぎたことやった、忘れといて。さよなら」
精いっぱい硬い調子で言って携帯電話を耳から話すと、押し殺すような微かな呼吸が漏れてくる。
小さな小さな、堪えることに慣れてしまった人間の泣き声だと 終話ボタンを押せないまま、鼻の奥につんとくる痛みに耐える。
『 ぁ、なたのこと、が……好き でした。さようなら』
掠れるような微かな独白はオレに聞かせるためじゃなかったのかもしれない。
通話が終わったと思って告げた言葉だったかもしれないし、オレに向けて言われた思いじゃないのかもしれない。
けれどわずかな希望に────
「 ────っ!」
携帯電話が滑り落ちて、苦痛に体が自然と縮こまった。
少しでも楽な体勢をとろうとするも痛みで動くことができず、よろけながら丸まるようにして壁へと倒れ込んだ。
「 っ⁉」
とっさに押さえた先には赤い花。
明らかに悪意を持って痛みを起こすそこを見下ろし、瘧のように震える手でゆっくりと撫でる。
傷の凹凸以外に何も手に触れないはずなのに、どうしてだか和歌の存在を思い出した。
画面にひびの入った携帯電話を撫でながら、薬の受け取りをぼんやりと待つ。
腹部の痛みについて、原因は結局わからないままだった。
帝王切開もしたし、職業柄体を酷使もする、原因は幾らでもありそうだったけれど逆にこれといったものがある状態でもなかった。
「……時間の無駄やん」
辛うじて出された痛み止めも飲む必要があるのか甚だ疑問だ。
痛みがある間は動けないし、動けるようになったら痛みはあっさりとなくなってしまっている。
ただわかるのはその痛みがまるで、『わからせる』ためのようだったことだ。
ぼんやりと、ぼんやりと、目に見えるとか触れられるとかではない、和歌の存在がまるでそこにあるようで……
腹をさすると思い出さなくなってきたようなことまで次々と浮かんでくる。
「未練 なんか、それともただの申し訳なさなんか……わからんなぁ」
碌でもない世界から連れて逃げてくれた相手に対する愛着なのか執着なのか、もう自分自身でわからなかった。
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