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はいずる翼 100

 ただはっきりとわかるのは、一歩踏み出してみたいと思う気持ちだった。  小金井に相談事があると切り出すと、長い前髪を揺らして微かに首を傾げる。 「ちょうどこっちも話があったんですよね。天気もいいし、お茶でも?」 「……いいや。そこまで改まった話でもないし  」 「あ、前から言ってた話です? 受けてくれるんですよね?」 「ああ、そやったな  」  そう言えばそんな話もあった という素振りを見せると、小金井はあからさまに不機嫌な顔をして背もたれに倒れ込んだ。 「なんだ、違うの?」 「その話は何度も言うたように断るわ。それから、店も辞める」 「  は?」  前髪が長いせいで表情は読み取りにくかったが、それでも小金井が驚いているのはわかる。  背もたれに預けていた体を跳ねるようにして起こし、デスクを挟んだオレの方へ駆け寄ろうとしてあちこちにぶつかって床に倒れ込む。  手を貸すこともなく髪が伸び放題の頭を見下ろしていると、前髪の隙間からちらりと目が覗いた。 「本気?」 「まぁ。もう年も年やしな」  Ωが若く見えるといっても限度がある。  それに、もう泥の中で這いずるのは疲れた。 「和歌から、なんか連絡はあった?」  この問いかけは随分と久しぶりだった。  ここで働き始めた当初は毎日……いや、毎時間のように尋ねていた言葉もいつのまにか口に出さなくなっていたことに気が付いた。  答えがわかりきっていたからか、それとも時間の経過に擦り切れたか…… 「いいや」 「わかった。それなら腕のいい探偵を紹介して欲しい。あんたなら伝手もあるやろ?」 「探偵?」 「まとまった金はある、和歌と……子供の行方を調べてもらいたいんや」  本来なら、もっと早くにとって然るべき行動のはずなのに、どうして今までそれが思い浮かばなかったのか。  この十数年で幾つも広告を見ただろうに、なぜ一度も気にかからなかったのか不思議だった。 「もう、大神も来んようになったし……潮時やと、思う」  床に座ったままの小金井はじっと髪の隙間から、きっぱりと言い切ったオレを見つめている。   「…………じゃあ、最後に一仕事だけはどうかな?」  そう言って手探りでデスクの上のメモ帳を取るとオレに手渡してきた。  客に連れてこられたとしても部屋へ直行が多かったせいか、高級ホテルのカフェラウンジに向かうのは抵抗があった。  蓮っ葉な格好はしていないと思うのだけれど、自分はこういった場にふさわしくないのではと気後れしてしまう。 『大神氏が、会いたいんだと』  辞めると告げた途端にコレは、いったいどういう運命の巡り合わせなんだろうか?  

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