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はいずる翼 105

 前に進もうとするオレにとってはただの足かせだ。 「赤ちゃん……あんたは  どこにおるんやろか  」  どこかで健やかに生きてくれていると信じていたけれど、確信が持てるのは手を這わした腹の中にいないことだけだった。  辞める と知ったのか、いつも陰口を叩いてくる新人は押し黙ってオレを睨むだけだ。  願いが叶ってよかったね とでも言ってやればいいのかもしれなかったが、そんな気力すら起こらずに無視して事務所へと入った。  簡素な事務所の中にデスク、その向こうに今日も変わらない小金井。 「大神さんの用事すませてきたで」 「お疲れさま」 「んでや、前に言ってた探偵やけど……」  小金井はデスクの向こうからうーん と考えるような様子を見せてくる。  ナニかありますよと言いだけな態度にイライラと腕を組んだ。  話したいことがあるならさっさと話せばいいし、目の前にちらつかせてこちらをからかいたいんならもう話さなくて結構だ。  どうせここを辞めたら切れる縁だろう。 「じゃあ探偵の連絡先は携帯電話送って。当分はまだこの番号やから」 「ちょ、ちょっと待って! 連絡が来たんだって!」  ばっさりと切り捨てていこうとしたオレに、小金井が縋るように声をかける。  連絡?  それが何を伝えているのかわからなかった。  探偵にはまだ依頼していないから連絡の来ようがないし、客は大神以外は全部断ってもらっている。  オレの交友関係に、小金井がニヤニヤしながら口に出すような人物はいない。   「  ────仙内さんから、きたよ」  すだれ前髪の下の唇が弧を描いたのを見て、まるで怪談話でも始めるかのような不気味さを感じる。  キィキィと不協和音を奏でる弦楽器の音のように、どこか不愉快さを感じさせる態度だった。 「なん て?」 「仙内さんから、連絡だ」  そこには、長年待っていた連絡が来てよかった と言う感情は見えない。  それよりはいじめっ子がいじめられっ子をからかう際のいやらしい下品な雰囲気さえあって…… 「嘘や ん ?」  小金井の悪質な嘘だと思ってそう返した。    だって、本当に今更……だったから。  十数年も連絡一つ寄越さなくて、それでもなお当然のようにオレがここにいると、どうして思っているんだろう?  捨てられたのだと気づいてとっくにここから離れててもおかしくない時間が過ぎて……いや。 「いいや。……和歌はホンマに子供の行方を捜してくれてた……? ホンマやったんや……」  じわりと言葉の語尾に喜びが混じるのがわかる。  さっきまで淀んだ雲に塞がれているかのようだった視界が一気に開けて、明るさが瞳を射る眩しさにくすぐったさを覚えた。

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