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雪虫5 1

「違う!」  血のついた拳で扉を殴りつけても微動だにしない。  それはまるでこの扉の向こうにいる人物の強固な想いと同様で、オレが何をやってもびくともしなかった。  厚い扉の向こうから聞こえるけたたましい音と悲鳴のような、それでいて咆哮のような……  繰り返し殴りつけた拳が痺れて感覚がなくなる頃、やっとオレの耳に同じ部屋の隅ですすり泣く人間の声が飛び込んでくる。  噎せ返るようなΩのフェロモンとそこに混じる獣のような荒々しいαのフェロモンに、眩暈を感じてふらふらと膝を突くと扉の下から伝って忍び込んだ赤い液体に膝が触れた。  金臭く、赤いと表現したけれど黒に近い色をしたそれは尋常じゃない量だった。 「違う……こんなのは、違う。あんたはっ! 間違ってるっ!」  オレの叫びに、怯えるΩ達が小さく悲鳴を上げた。  ぷくー……と膨らんだ頬に、つい指を伸ばしたくなって慌てて引っ込める。  オレ自身も頬を膨らましたくなるくらい怒っていたんだって思い出して、とりあえず怒っているんだぞ という体裁を整えるために視線をそらした。  ……けど、最愛の番が目の前にいるのに、視線をそらし続けるなんて苦行をオレができるわけもなく。 「えっと……ごめん、な?」  あっさりオレが折れて、雪虫にそろりそろりと謝罪することとなった。  事の発端は雪虫についた他の人間の臭いだ。  『ニオイ』といっても実際に香りを感じるわけじゃなくて、もっと感覚的なもので本能に訴えるようなものだ。  オレ、阿川しずるは特にそれを感じ取る能力が高いらしくて、他の人間よりも臭い……というか、フェロモンに対して敏感だった。  だから雪虫がオレ以外の人間のフェロモンを、無意識だとしてもつけていたことにたいしてちょっと、何というかイライラしてしまってつい喧嘩……じゃない! 喧嘩じゃない! ただの言い争い……でもない! 意見の食い違い? が起こってしまっただけだ。 「しらない」  雪虫の柔らかな頬はこれ以上ないくらい膨らんでいると思っていたのに、更に膨らむ。  その姿を見ていると、他の人間のフェロモンをつけていたことに腹を立てていたのに可愛いって思うし、オレ達の間に不穏なものは何もなかったって言い張りたくなる。  ってか、喧嘩なんかしてないっ! 「あの、雪虫さん?」 「つーん」  わざわざ擬音語を使ってまでオレを無視する可愛らしさに五体投地で崇めたくなったけれど、そこはぐっと堪えて膝を突くだけにしとく。 「雪虫、ごめんて。口うるさく言い過ぎたって反省してる。でも……オレは、雪虫のことが大好きだしあ……ぁ、愛してるからっどうしても心配なんだって」  

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