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雪虫5 30
瀬能の呟きはオレに対してじゃない。
医者という立場柄、きっと瀬能が零してしまったものはオレが考えるよりもはるかに多いはずだ。
瀬能は今までにもこんな無力感を味わってきたのかと、年相応にくたびれて見える背中に憐みの目を向けた。
年齢とか性別じゃない、皆に等しく訪れる選択を繰り返すことに疲れたような背中だった。
「……ありがとうございました」
オレには、瀬能が乗り越えて来たその人生の厚みに対してかける言葉もできることもなくて、ただお礼だけを言って部屋を出るしかなかった。
きっといつもなら真っ先に雪虫の部屋に駆け込んでいたと思う。
番になって、こんなにも長い間会えなかったのは初めてで、頭というよりも胸の真ん中が雪虫に会いたいって叫んでいる。
でも、部屋に行くことができないままに中庭に腰を下ろした。
研究所の中庭から空を見上げると、ぽっかりと空を切り取った絵のように見える。
そう感じると、自分が絵の中にいるのか外にいるのかわからなくなって、セキのことでごちゃごちゃだった頭の中がかき混ぜられるかのような気分になった。
自分に何ができたのか。
一人二人殴り倒すことならできただろうけど、それはそこで終わりだ。
結局オレがしたことはセキを救出するどころか、自分が怪我を負っておしまいになってしまった。
そうなったら、もうセキを助けるだとかそんなレベルの話じゃなくて、自分の命も危うかったんじゃなかろうかと考えて怖くなった。
オレが入院していた間は、うたや若葉、研究所の職員が雪虫の世話をしてくれている。
でも、それが常になったら……
雪虫の世界からオレがいなくなったら、雪虫はどうやって生きていくんだろう?
ほんの少し外気に当たりすぎただけで熱を出して、研究所の食堂に行くだけで体力を使い果たす。
雪虫を攫おうとしている奴らがいるから外には出られないけれど、それを抜きにしても雪虫はここから出て行く体力自体がない。
働くなんてもってのほかだ。
誰かが傍に居ないと生きていけないほど弱い雪虫は、オレがいなかったら他の誰かの手を借りるしかない。
「……オレ以外の、誰かの 」
人は一人では生きていけないし、人間は社会を形成して生きるんだって理解していても、それでも願ってしまうのは二人だけで世界が完結すればいいのに なんていうのは荒唐無稽な考えだ。
雪虫がオレ以外の人間の手で生きていく可能性を考えただけで鬱々となってしまう。
「閉じ込めちゃいたいなぁ」
物騒なことを言っているとわかっている。
それでなくともこの研究所から出ることのできない雪虫を更に閉じ込めようと思うなんて……
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