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雪虫5 39

「なんっ  なんでっ、手が勝手に    っ」 「大神さんが時々使うだろう? リリーサーフェロモンの応用を使った……魔法の薬かな」 「ま ほ  」 「試作品だけど効果は確認されているから、逆らえないだろう?」  ぎ と噛みしめた奥歯が音を立てても体は思うようには動かない。 「薬を打たれて、君は逆らえないんだよ。君が悪いわけじゃない」  くたびれた表情のまま東条は言うと、パソコン画面にさっと視線を走らせる。  その速さで読めているのか不安になるスピードで次々と画面をスクロールすると、一か所でぽつん と動きを止めた。  視線の先にあるのは新しい戸籍を得て、元の素性を隠しながら生きているΩ達のデータが並んでいた。  古い物から順に並べられたそれはかなりの数に上ったが、東条の目的はたった一人のようだった。 「……穂垂」    上ずるような声は、感極まって泣きそうなのを堪えているものだ。 「と  じょ   」 「君は、試薬を使われ、私に操られ、抵抗できなかった」  一言一言いい含めるような喋り方は、オレに今の状況を言い聞かせていた。 「ちがっ  !」  体の中で明らかに反応を始めたフェロモンを振り払うように声を上げると、あれほどぐったりしていた体にわずかだが力が戻る。  暴れるように身を捩り始めたオレを、東条は苦しそうに顔を歪めてから見つめて……勢いよく椅子の方へと突き飛ばす。  キャスター付きの椅子はオレが倒れ込んだ勢いで派手に滑ってひっくり返り、床に倒れたオレに向けて倒れ込んでくる。 「────っ!」  はっと東条の息を飲む気配がした。 「すまないと、思っているよ」  オレに向かって真っ直ぐに言われなかったセリフはわだかまるように絡まってうまく聞き取れない。  這い出すようにして椅子を押し退けると同時に、けたたましい音がして東条が駆け出していくところだった。  静まり返ってしまうと、ついさっきまで起こったことが事実だったのか疑わしいほどで、オレは自分が白昼夢でも見たんじゃないかって震えながら立ち上がった。  けれど、東条に淹れようとしていたお茶のカップを見て、きちんと閉じられていない扉を見て、染み込むように先ほどまであったことが現実なんだと理解する。 「  っ、……っ!」  ぶる と震えた体でパソコンの方へと慌てて向き直る。  そこにはΩ達の一覧が映っていて……オレは東条が零した「ホタル」の名前を手掛かりに誰を探していたのかを確認して、とにかく東条を追いかけないと と走り出した。  真っ白で特徴のほとんどない廊下を駆け、出入り口の方へと向かうとそこにはいつもいる警備員が困惑した顔のまま、オレと外を見ている。

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