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雪虫5 49
今までの東条なら相手の部屋のチャイムを鳴らすかどうかすらわからない様子だったのに、じっと耳を澄ますようにして何かを窺っている。
反射的に、すん と鼻を鳴らす。
東条の番ならば項を噛まれていて、他人がフェロモンを感じることはない。だからそれは無駄な行動のはずなんだけど……
「アルファの臭い が……」
つい漏れた言葉を慌ててごまかそうとしたが、それは到底無理なことだった。
自分の番がいる場所に他のαの臭いが残っている なんて、良くないことを想像してもおかしくはなかった。
以前に瀬能が「番になったからって、物理的に蓋ができるわけじゃないから」って言っていたことを思い出す。
確かに項を噛んで番契約をすればΩのフェロモンは他の人間にはわからなくなるけれど、だからといってそれで一切他の人間と触れあえなくなるのか? って言うとそうでもない。
人の体はどこまでいっても人の体で、力ずくで犯そうと思えばできてしまうし、症状に合った薬を使えば自発的に浮気もできるのだと。
「…………」
ここがつかたる市だったら他にαが住んでいたんだ と思えるけれど、ここはつかたる市から随分と離れた地方でそもそもバース性の人間自体が少ない。
そんな場所で、たまたまΩの近所にαが住んでいました なんて偶然があるだろうか?
オレは、東条の番が姿を消した理由を考えて……
「あ、の、やっぱり、オレが先に 」
それとも救急車か警察か。
管理人のおじさんが気を利かせて警察に連絡してくれてやしないかと、他力本願なことを考えながら立ち止まっている東条をすり抜けて目的の部屋のインターフォンを押した。
東条との間に入っていれば、いざという時に多少なりとも壁になれるはずだ。
それくらいしかできないけど、やれることをやるしかない。
部屋の中から微かなチャイムの音が響いて、ドキドキしながら反応を待つ間に東条が背後に立つ。
たったそれだけなのに押しつぶされそうなプレッシャーを感じて、早く出てくれと口の中で小さく呟いた。けれど、オレの祈りを無視してインターフォンは沈黙したままだ。
気まずいし、何度も押したくはなかったけれど仕方なしにもう一度押して……返ってこない返事にオレの指は行き場を失う。
「留守みたいですし、出直しませんか?」
「……そんな時間はない」
そう言うと東条はオレを押し退けてドアノブに手をかけた。
────ガチャ
家の主が不在なら、本来開いてはいけないはずだ。
それが開いて……αの臭いが漏れ出す。
けれどそれと同時にか細い赤ん坊の泣き声が隙間から這い出るようにしてオレ達の耳に届いた。
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