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雪虫5 63
「それでも、人は理性の生き物だから。番の絆ではごまかしきれないことも出てくるわけさ」
「はぁ?」
「性格の不一致とかね。年収や金銭感覚、衛生感覚の違い、貞操観念、趣味嗜好、些細なことだけれど共に生活していくために擦り合わせなきゃならないことだ。指先に刺さったトゲが重大な病理の原因になったり とか」
試験管を振る手は軽やかだ。
「最初は耐えられても少しずつ積もりに積もって耐えきれなくなる」
「えぇと、はい」
瀬能は真剣に話してはくれているのだろうけれど、オレはあまりピンと来なくて……返事は曖昧だった。
オレは雪虫の生活にすべてを合わせることに文句はないし、苦とも思わないからだろうけど。
それも、この先五年十年と過ぎるうちに嫌だと思い始めるんだろうか?
気持ちが通じ合って番になれて、それで幸せだと感じている今はずっとは続かないんだろうか?
瀬能の口から出てくる言葉はよどみがなくて、これが人生経験の差かと項垂れる。
「だから熟年離婚だって増えるよねー」
「それはオレじゃなくて先生が心配しなきゃならないことじゃないですか?」
「うちは……うちは……大丈夫だよ」
そう言うも、瀬能の目はちょっと泳いでいる。
「さぁ、今日はもう帰っていいよ」
そっけなく背を向けられてしまう。
「雪虫に会いに行ってもいいですか⁉ 顔を見るだけ! ちょっとだけなんですけど」
時間を考えれば、とっくに研究所にいてはいけない時間帯だ。
それを、今回は東条のことがあったから特例としてこの時間までいただけで……でも、午後から会いに行くことはできなかったし、ちょっとくらいなら融通してくれないかな?
「だーめ」
「ですよね」
ちょっと強請ったくらいで好きなように会わせてくれるなら、オレはもっと毎日が満たされている。
そう思うと、こういうちょっとした不満が積もりに積もって……なのかもしれない。
いつか瀬能のお茶をめちゃくちゃ苦くしてやる と心に決めて立ち上がる。
「明日はお休みでいいよ。君もいろいろなことがあって大変だったろう?」
「……」
いろいろの部分に、思わず足を止めた。
セキのことも東条の番のことも、瀬能や大神達が動くからオレには関係のないことだろう。
オレにも何かできるかと思って動いた結果は、結局何もできないままに終わっている。
「別に君が何もできないとは思っていないよ。間違えないで欲しいのは、君はまだ子供だということだ」
オレの心の中を読んだように言われた言葉に、思わずむっと唇を曲げた。
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