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雪虫5 80
「あ……ま、周りの、様子を見るだけです……」
幸いオレはΩだと思われているんだから、抵抗しない限りいきなり殺されるなんてことはない と、思いたい。
自分の考えが楽観的すぎるとは重々承知で、もう一度扉を叩いた。
「トイ ────っ」
ガタッと音がした瞬間、勢いよく開け放たれた扉に突き飛ばされて、堪えることができずに倒れ込む。
さっと外から差した光は明るくはなかったけれど、この部屋の光量よりも随分明るかったせいか目が眩みそうになった。
四角く切り抜かれた明かりの中に立つ男は恰幅のいい、中年と呼ぶには失礼だと感じる年齢の男だった。オレが公園で見かけた二人組のどちらかというわけでもなくて、完全に初対面だ。
「うるせぇ!」
低く、怒鳴ると割れる声は人を怯えさせるのには十分だ。
背後であがった小さな悲鳴を気にしつつも、オレはできるだけ肩を丸めて弱々しく見えるようにして項垂れる。
「あの……トイレに、行かせてもらいたくて……」
上ずるようにポツポツというと、男は面倒臭そうに首を鳴らして肩をすくめた。
「垂れ流せよ、どうせお前らは便所なんだから」
は は と自分の言葉が面白かったのかひとしきり笑って背を向ける男に縋り付く。
「そんっ……そんなこと言わずに……お願いします! お願いします! 本当にもう限界で……」
かつて直江に「泣く練習しよっか」と言われて、無理やり涙を搾り出す方法を教え込まれたけれど、それが役に立つ日が来るなんて思いもしなかった。
器用に好きなタイミングで右だけだったり左だけだったり涙を流してを手本で見せられて、できるわけないだろうと怒ったのもいい思い出だ。
縋りついたオレを蹴り飛ばして……けれど、それが男の心の何かに触れたようだった。
さっとオレを飛び越えて後ろで固まっている三人を見てから、再びオレに視線が戻る。
「じゃあー……そうだな、ちょちょっと口でスッキリさせてくれたら便所に連れて行ってやる」
「は?」
「は? じゃねぇよ、頭悪いな。どうするべきかわかるだろ?」
そう言うと男は少し腹肉の乗ったベルトを弄り始めて……
オレに何をさせようとしているのか理解した瞬間、引いた血の気とは反対に変な汗が吹き出す。
「ぁ、え?」
跳ね上がった心臓の音に締め出されたのか、他の音が消えて耳が痛いと感じる。
「ほら、さっさとやれ。お前らは突っ込むとゲーゲー吐くからな、これで勘弁してやる」
また短く笑いながらくつろげられたズボンの前に、思わず怯んで後退りそうになった。
ここでオレが嫌がれば、この男は次にどうするだろう? 抵抗するオレよりも、心底怯え切って逆らう気力のないΩに矛先を向けるのが当然だろう。
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