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第4話

 ぐにゃりと視界が歪む。瞬きをして見えた景色は、見覚えのある路地裏だった。隣にも後ろにもバケモノはいない。俺は裸にシーツを巻き付けた状態でバッグを抱えて独りで立っていた。 「帰ってきたのか? 何で……」  答える者はいない。  ひゅう、と風が吹いて、体がぶるっと震える。とにかく、誰かに見つかる前に自宅に帰らねば。バケモノの次は警察に捕まりかねない。 「スマホは……生きてる」  あれだけ長い時間放置していたのに充電は残っていた。画面に映る日時を見て更に驚く。 「1日も経っていないどころか、連れ去られた時間とほぼ同じだ」  戻って来られたとて、会社には何と言おうか、そんな事を考えていたのに必要なくなってしまった。いったい自分は今までどんな世界にいたのだろうか? 「考えても仕方ないよな」  それよりもまずは落ち着きたい。俺は家への道を急いだ。  久しぶりの我が家は、予想通り家を出る前と何も変わらなかった。掃除をサボって溜まった埃も、朝食べたパンの袋も溜めたままの洗濯物も、きっちりそのまま置いてある。俺は崩れるように玄関に倒れ込んだ。 「ただいま」 それを言えるのがこんなに幸せだと思わなかった。大して喜びも楽しみも無い、職場と家を行き来するだけの日常を有難がる日が来るなんて考えた事もなかった。それでも、やっと帰ってきたのだ。    翌朝俺は何とか半休を取り、新しいスーツを買ってから出社した。いつものスーツはバケモノに切り裂かれ、あれっきり戻ってきていない。あんなものは悪い夢だっと思いたいが、失ったスーツと余分に多いシーツだけが、あの日々が現実であったと確信させる。  疲れ切った心身にムチを打ち、日常を享受して働いた。退屈しないどころか一息つく暇も無い程の仕事の山も、無駄に話が長い朝礼も、上司の嫌味すら有難かった。ずっとまともな娯楽すら無い場所で、喋る相手もいなかったのだ。あのままあちらの世界にいたら日本語を忘れてしまていたかもしれない。  傍から見たらこんなにも機嫌の良い俺は不気味に見えるかもしれない。だがそんな事はどうでも良かった。    有頂天で残業し、終電に乗って帰る。最寄り駅を降りて恐る恐るあの路地裏を見たが、今日は何も光っていない。早足で通り過ぎ、帰宅する。 「ただいま」  玄関のドアを開け、真っ暗な部屋の電気を点ける。一日中興奮状態にあったせいか、朝から水しか飲んでいないのに、さして空腹を感じていない。それでも流石に夜も抜くのはマズいと思い、カップ麺のビニールを剥がす。 「いただきます」  湯を注いで適当に待ってから、一口啜った。柔らかい麺に醤油スープが絡んだ昔ながらの慣れた味だ。  子供の頃から1番好きな種類を選んだ。その筈だった。 「あれ?」  そんなに美味しくない。食べられないわけではないが、また食べたいかと言われれば否と答えるような、そんな感じがした。異様な程のしょっぱさと油っこさに若干の不快感を覚える。それでも取り敢えず食べきったが、スープまでは飲み干せなかった。何故こんなにも違和感を覚えるのかは分からない。  口直しがてら、チョコレートを口に放り込む。以前は好きだったあの苦味に耐えられなかった。  試しに缶コーヒーを開けた。まるで味覚が幼少期に戻ったようにコーヒーの良さが分からなくなっている。俺は混乱しながら、次々と色んな物を口にした。  エナジードリンクも飲んだ。食パンも齧った。冷凍おにぎりも解凍した。生野菜も口に放り込んだ。ドレッシングも調味料も一通り舐めた。  だけど、美味しいと思えるものは何一つ無かった。 「何で……」  まるで自分の味覚が変わってしまったかのようだ。何故だろうか? あちらでも現実世界にある物を食べていた筈だ。一瞬、「ヨモツヘグイ」という言葉が脳裏に浮かんだ。いや、そんな筈は無い。あちらの世界が黄泉かどうかはさておき、俺はちゃんと帰ってきた。間違いなく、現実に帰ってきたのだ。もう囚われてなどいない。自由になった。  きっと疲れているせいだと無理矢理思い込み、シャワーを浴びて眠る。  翌朝、出勤時間ギリギリに目を覚ました。  何とか顔を洗って着替えだけ済ませ、家を出る。朝食を食べる時間は無かった。  昨日はあれだけ有難いと思っていたあれこれが、今日は苦痛に感じる。いや、以前と同じに戻ったと言うべきだろうか?  終わりの見えない仕事の山、嫌と言う程聞いた社訓、機嫌の悪い上司の八つ当たり。こんな生活が幸せである筈が無い。それでもやっと帰ってきたのだ。嬉しいと思わなくては。  なのに今日はあの屋敷での生活を、バケモノの事を思い出してばかりだった。彼が用意したご飯が食べたい。姿を見せてほしい。俺を抱きしめてほしい。  多分俺は、あのバケモノに愛されていた。理由は分からない。多分一生聞くことはできない。きっと彼なりに大事にしようとしてくれていたと思う。最後に抱きしめられた時の腕は別れを惜しむように強かったのに、それでも俺の意思を尊重してくれたらしく、離れてくれた。俺が屋敷を出て逃げたから、帰りたいという思いが伝わったのかもしれない。  それらの思い出以上に乱暴にされた記憶が色濃く残っているのに、全て忘れてしまいたいとは思えない。 「何で……何でだよ……」  何も手に付かない。あのバケモノの事で頭がいっぱいになる。 「帰りたい」  思わずそう呟いた自分に驚いた。隣席の先輩からの視線を感じるが、それに構う余裕は無い。「帰ってきた」筈なのに、ここが自分の居場所だと言い切れないのは何故だろうか?  現実に帰ってきたのだから、もうあのバケモノの事も自分が陵辱された事も忘れて普通の生活に戻れば良いのだ。だけど、彼が恋しくて堪らない。  少しも集中できないまま仕事を終えて、帰宅する。ベッドに倒れ込んでから、何かを考えるよりも先に自分の尻に手を伸ばした。  あの手袋越しの手に触られるのを想像する。撫で回されて、そのうち指を挿れられて、中を解されて、それから―― 「ん、う……挿れて……」  自ら脚を開いて強請ったところで、求めていたモノは挿入ってこない。当然だ。自ら逃げ出してしまったのだから。  身体の疼きが止まらない。あの猛々しい性器で貫いてほしい。俺の痴態を見て、カメラで撮ってほしい。抱いてほしい。抱きしめてほしい。  また会いたい。もう1回俺にプロポーズして。伝わらないのだろうけど、今度は「喜んで」と返事をしたい。 「なんて、遅いよな」  自分で選んでから「やっぱりあっちの方が良かった」と嘆くのは昔から変わらない。自分のそんなところが嫌いだ。現実に戻ってきて2日目でこれなのだ。もし彼が俺の様子を見ていたら愛想を尽かすかもしれない。 「名前くらい、聞き出せたらよかったな」  だけどきっともう遅い。後悔しながら、俺は彼との行為を思い出して独りでシた。  それを繰り返して、とうとう1週間が経過した。まだ彼の事を忘れられないどころか、身体疼きは寂しいと思う気持ちと共に、日に日に強くなっている。また会えないかと、あの路地裏を見ながら歩いてみても、彼の元には行けない。  本当にあれでお別れなのかと思ったある日、鞄の底から入手した無い1枚のコインを見つけた。日本円でもなく、何処かの国の通過にも見えない。どちらかというと、ゲームセンターにあるメダルのようなものだった。 「何だこれ……っと」  掌からうっかりコインが滑り落ちる。床に転がったそれを拾おうとすると、ぐにゃりと視界が歪んだ。  瞬きをする。まさか、と思うよりも早く俺は周囲を見た。  そこは街中だった。その奥に森が見える。考えるより先に俺はそちらに向かって走った。  また迷子になるかも、辿り着けないかもしれない。そんな不安は不思議と無かった。絶対に辿り着けるような気がしたのだ。  息が切れ、足が重くなってきた頃森を抜ける。  目の前に見覚えのある屋敷があった。扉の前に立っても、呼び鈴らしきものは見当たらない。俺はガンガン、と扉を叩いた。  数秒経って、ガチャリと扉が開く。出てきたのは会いたくて堪らなかった彼だった。  彼の頭部の靄が激しく揺れる。驚いているのだろう。いや、驚きだけではないのかもしれない。俺に手を伸ばそうとしては、遠慮がちに引っ込めてを繰り返している。ひと月も離れていないのに、酷く懐かしく思えた。俺の方の世界で10日程度なら、この世界だとどのくらいの時間が経っていたのだろうか。  俺は、彼に思い切り抱きついた。 「ただいま!」  〜fin〜

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