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第六章① 桜

 仕事へ向かう途中だった。桜並木を通った。何の変哲もない、よくある遊歩道だ。満開の桜が、青空を埋め尽くすように咲き誇っていた。麗らかな春霞の下、道のずっとずっと向こうまで、ほんのりと淡い紅色が幾重にも折り重なっていた。  春風に吹かれて、花びらがひとひら舞い降りた。鶫の黒髪を彩る花びらを、風間は手に取ろうとした。その時だ。  鶫が卒倒した。後ろへ綺麗に引っくり返った。突然のことに、風間はぎょっとして狼狽えた。   「大丈夫か?!」    慌てて頬を叩くと、鶫はじろりと風間を睨んだ。   「いてぇ」 「わ、悪い。急に倒れたから」 「……そーいうこともあんだろ」 「ねぇわ」    道のど真ん中で、鶫は仰向けに倒れたまま、ぼんやりと空を見上げた。ウグイスの鳴き声が高らかに響く。   「……脳の病気か?」 「あぁ? あんた、俺が狂ったと思ってんのか?」 「違う違う。脳卒中的なやつだよ。頭の病気は怖ぇからな」 「……大丈夫だろ。たぶん、ただの貧血だ」 「お前、そんな貧弱じゃないだろ。朝飯お代わりしたのはどいつだよ」 「じゃあ目眩だ。ただの目眩。心配ねーって」 「……全然説得力ねぇよ」    幽霊のような蒼白い顔だ。麗らかな春の日差しに似合わない。   「どうする、今日の仕事。キャンセルするか」 「馬鹿言うなよ。今すげぇ殺りてぇ気分」 「物騒なこと言うな。オレ一人で行ってくるから、お前は先帰ってろ」 「マジで問題ねぇんだって。ちょっとクラッとしただけで、今は全然普通だし。仕事なんか何個でも余裕でこなしてやるよ」    風間が差し出した手を、鶫はぎゅっと握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。そのまま手を離さないので、桜並木を通り抜けるまで手を繋いで歩いた。    *    無事に仕事を遂行した帰り道。迂回しようとした風間を差し置いて、鶫はあえて桜並木へ続く道を選んだ。   「おい、なんでそっち行くんだよ。オレがせっかく」 「気を遣ってやったのにって? 別に、変な気回さなくていいぜ。こっちのが近道だしな」 「でもお前なぁ」 「へーきだって。夜なら、たぶん何ともない」    朧月が雲の切れ間に姿を現す。満開の夜桜が、闇を照らすように咲き乱れていた。まるでそれ自体が霞のように、仄かな白で夜の闇を染め上げる。ぼんやりと滲むような花明りが、道のずっと向こうまで静かに連なっていた。  ひとひら舞い散った花びらを、鶫は器用に掌に受け止め、ふっと吹き飛ばした。薄い花びらは一度宙へ舞い上がり、ひらりひらりと可憐に舞って、地面に落ちた。   「はっ、ただの桜だ」 「……お前、昼間倒れた原因分かってるだろ」    風間が言うと、鶫はひらりと振り返った。秘密を隠した子供のように、口の端を持ち上げる。   「知りたい?」 「お前にその気があるならな」    ***    鶫の母親は、桜の木で首を縊って死んだ。鶫のいた土蔵の地下牢から、一番よく見える桜の木だった。  その日の朝、鶫は外の騒がしさに目が覚めた。何事かと小窓から確認する前に、バタン、と地下室の扉が開いて、外へ摘まみ出された。   「よう見い。オマエの罪や」    父が言った。鶫は顔を上げる。母の死体が春風に揺れていた。   「……」    青空を覆い隠すように狂い咲く桜。ぶら下がる女の死体。血のような真紅の着物が、桜の白によく映えた。長い長い着物の帯が、地面を引きずっていた。風が吹くと、無数の花弁が吹雪のように舞い散って、視界を奪った。  鶫は砂利を握りしめた。こんな女が死んで、だから何だというのだろう。この女を母だと思ったことなんて、ただの一度としてない。死んでよかったとさえ、死んでくれて清々したとさえ、鶫は思った。   「何を笑うとる」    父親は鶫を張り倒した。   「オマエが殺した母親や。オマエのような人間以下の欠陥品を産んだせいで、絶望して死んだんやぞ。死んで詫びろ」 「……」 「しかしろくでもない女やった。霊力の高い女がおると聞いて結婚したのに、まさかこんな出来損ないを産むとは。最期は庭を穢して死によって、迷惑極まりない」 「……」 「おい、誰か早うこいつを片付けろ。景観が悪い」    野次馬に多くの者が集まっていたが、誰も死体に触れたがらなかった。誰かが下働きの男を呼んできて、ようやく首吊り死体は地面に下ろされた。  鶫は罰として縛り上げられた。母の首に巻き付いていた縄で縛られ、母がぶら下がっていた桜の木に吊るされた。   「そこで反省せぇよ」  誰かが言った。父親の姿は既になかった。    春先とはいえ、風はまだ冷たい。鶫は剥き出しの足を擦り合わせた。指を絡めてつま先を暖めて、そうしないとすぐにでも凍えてしまいそうだった。  お腹が空いた。喉も渇いた。忘れていたが、朝食がまだだった。この様子では、昼食も食べさせてもらえないだろう。  必要以上にきつく縛られたせいで、内臓が圧迫されて口から飛び出しそうだ。縄が手首に食い込んで、指先が痺れる。早く下ろしてほしいが、騒いだところでもっときつく縛られるだけだと分かっている。この程度の罰で済むなら、優しい方だ。   「……鶫」    声がして、鶫は目を開けた。同い年の少年が、鶫を見上げていた。   「……兄ちゃ……」 「喋るな! 出来損ない!」    罵倒の声と共に、石をぶつけられた。それは額に命中し、鶫の視界は半分真紅に染まった。   「っ……」 「オマエのせいで母ちゃん死んだんや! この人殺し!」    少年は足元の砂利や小石を拾い上げ、次々と鶫に投げ付けた。鶫の体には次々と新しい傷ができた。   「オマエが死ね! 母ちゃんを返せ! なんでオマエみたいなんが生きとって、母ちゃんが死ななあかんねん!」 「っ……ごめ……」 「ごめんやあらへん! 喋んなや!」    視界が全て鮮血に染まる。鶫は目を閉じ、顔を伏せた。  少年は、鶫の双子の兄だった。同じ男の種から生まれ、同じ女の腹から産まれたのに、一方には類い稀なる能力が認められ、もう一方は人間以下の出来損ないと断じられた。   「なんでオマエみたいなんがぼくの弟なん? 生まれてこうへんかったらよかったのに! ぼくと父ちゃんと母ちゃんで、三人の家族やったらよかったのに! それなら幸せやったのに!」 「……っ」 「死ね! 今すぐ死ね! そんで母ちゃん生き返してぇや!」 「……」    そんなことは、鶫にだってよく分かっていた。自分という存在が、一つの家族のささやかな幸せをぶち壊しにしていることは、数え切れないほど何度も何度も言い聞かされてきた。  自分さえ生まれてこなければ、父は次期当主として揺るぎない地位を築いていただろう。母は父の愛を失わず、屋敷での立場を追われず、心を病むこともなかっただろう。兄は健全な両親に目一杯愛されて、才能を伸ばすべく健やかに育てられたことだろう。  しかし、鶫だって自ら望んで母の腹に入ったわけではない。生まれてこなければよかったと、最も強く願っているのは鶫自身なのである。   「一鷹(かずたか)坊ちゃん!」    世話係の女中が、少年を見つけて駆け付けた。   「何をなさってるんです、こんなところで。まぁまぁ、血が! いけませんよ、穢れが伝染ったらどうするんです」 「……だって、母ちゃんが……」 「ええ、奥様のことは私も存じております。けれど、ここへは近付いてはいけません。お父様のお言い付けですよ」 「だって、だって……」    少年は堰を切ったように泣きじゃくった。わんわんぎゃあぎゃあ声を上げて泣き喚く少年を、女は優しく宥めた。背中を撫で、頭を撫でて、最後は抱っこをしてあやした。少年は女の胸にむしゃぶりついて、なおもわあわあ泣き散らした。   「お辛いでしょう。お可哀想な坊ちゃん。今はいくらでも泣いてくださいね。そのために私がいるんですから」    女は鶫には目もくれない。まるでそこにいないかのように。見えていないかのように。  しかし、鶫はこの女を知っている。以前、生ゴミを投げ付けられた。泥団子を食わされた。真冬に井戸水を浴びせられ、そのまま裸で放置された。たったそれだけの関わりだが、よく覚えている。  鶫は桜の木に吊るされたまま、たった一人で取り残された。真紅の血に桜の花弁が張り付く様は、陰鬱で凄惨な美しさだった。やがて、北風に吹かれて血は乾き、張り付いた花弁は粉々になって崩れ落ちた。

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