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第六章②
「ま、言っちまえば大したことのねぇ話だ。悪かったな。怒ったか?」
鶫はあっけらかんと言い放った。風間は頭を抱えた。
「……大したことあるだろ……」
「これくらい普通だろ」
「お前の実家、イカレた連中しかいねぇのか」
「まともなわけねぇだろ。霊がどうの呪いがどうのって、年がら年中大真面目に話してる連中だぞ」
「……それもそうか?」
「俺はずっと、自分が狂ってるんだと思ってた。そういう扱いしかされてこなかったからな。でも、本当に狂っているのは俺じゃなくてあいつらの方だったって、実家を離れて初めて分かったよ」
鶫は夜空を仰ぎ見る。夜桜が吹雪のように花弁を散らす。暗い夜空が仄かに明るく照らされる。
「明日、行ってみるか? 花見」
風間が言うと、鶫は皮肉るような笑みを浮かべた。
「花吹雪に紛れて仕事することがあるかもってか?」
「違ぇよ。オレはただ、お前と……」
何と言えばいいのか分からず、風間は頭を掻き毟った。体だけは幾度となく繋げているのに、こういう時にどうやって誘うのが正解なのか、いまだによく分からない。
子供じみたことで年甲斐もなく悩む風間を滑稽に思ったのか、鶫は「いいぜ」と言って唇を緩ませた。
「おっさんの全奢りならな」
「奢るったって、屋台とか出るのか?」
「出ねぇの?」
「オレの知ってる花見は、弁当作って持っていって、桜見ながら食うやつだ」
「んだそれ。楽しいのか?」
鶫は怪訝そうにしながらも、期待に瞳を躍らせる。
「まぁ、そこそこな。外で飯食うだけで楽しいんだろ」
「他人事だな」
「オレも久しぶりなんだよ」
「まーいいや。明日な。忘れんなよ」
「……明日って、マジの明日か?」
「明日以外にどの明日があるんだよ。あんたが言ったんだろ? 約束したかんな」
「いや、うん。そうか……」
風間は冷蔵庫の中身を思い浮かべる。弁当を作るにはいささか頼りないラインナップだ。帰る前にスーパーマーケットへ駆け込まなくては、と真剣に考えた。その隣で、鶫の足取りは羽根のように軽やかだった。
*
「おい、いつまで寝てんだよ。もう十時だぞ」
エプロン姿の風間は、鶫の布団を剥ぎ取った。鶫は寝惚け眼を不機嫌に歪めて、芋虫のように体を丸めた。
「まだ十時だろ……」
「お前なぁ、自分で約束っつったの忘れたのか?」
「んん……?」
「花見、行かねぇのかよ。弁当こさえて待ってんだぜ、オレは」
「ん……」
鶫はうっすらと目を開けた。とろんとした目付きで、甘えるように風間を見つめる。
「……チューしてくれたら起きる……かも」
「甘えんなよ、お子ちゃま」
風間は鶫の顎に指を添え、そっと唇を寄せた。ほんの一瞬唇が重なって、すかさず鶫が舌を伸ばすが、風間はぱっと体を起こした。
「ほら、チューしたぞ。さっさと起きろ」
「ちぇ。ケチクソ」
「これ以上したらもっと遅くなるだろうが」
慌ただしい出発になった。
ようやく公園へ着いた頃には正午を回っていた。この辺りでは有名な桜の名所だったはずだが、
「……散ってるな」
今日未明から明け方にかけての雷雨が、桜流しの雨になったらしい。立派な枝ぶりの桜がたくさん植えてあるのに、花よりも芽吹いたばかりの若葉が目立つ。地面は芝生になっているが、散り落ちた花びらが敷き詰められて、まるで雪が積もっているようだった。
「ここでいいか?」
しかし鶫はあまり気にしていないようで、一番大きな桜の木の下に嬉々としてレジャーシートを広げた。
「おっさんも早く来いよ」
「オレじゃなくて弁当だろ」
「朝食ってねぇから腹減ったんだよ」
「十時に起きて朝飯もクソもねぇだろ」
風間はタッパーを開ける。わざわざ早起きして作ったなんて、自分でも馬鹿らしくて笑えてくる。
「すげぇ。これが弁当?」
「本当はお重に入れるのがいいんだが、んな気の利いたもんうちにはねぇからな」
「別にこれでいいじゃん。おっさん、結構気合入れて作ったな」
「……別に普通だ」
「でも、俺の好きなもんいっぱい入ってんぜ。唐揚げと、ミートボールと、ウインナーと、卵焼きと、ポテトサラダもあるし、ミニトマトも……」
「好き嫌いすんなよ」
「ヤダ。ブロッコリーいらねぇ」
「野菜も食え」
「トマト食うからいいんだ。こっちは?」
鶫はもう一個のタッパーを開ける。
「そっちは主食だ」
「……ぷぷ、やっぱ気合入れて作ってんじゃん。おにぎりでっか」
「るせぇな、デカい方が食いでがあんだろ」
「サンドイッチもあるし。卵サンドだ」
「……」
風間は今更になって恥ずかしくなってきた。知らず知らずのうちに鶫の好物ばかりを詰めていたことに、本人に指摘されて初めて気付くなんて。
「もう、いいからさっさと食え。花見もクソもねぇわ」
「散ってるしな。こーいうの、何つーのかな。ただのピクニック?」
春風のそよぐ中、青空の下で飯を食う。ただそれだけで、何か特別なような気がする。
実際、何も特別ではない。いつも通り、血腥い仕事をして得た血塗られた糧だ。そんなおぞましいものを、平和な風景に溶け込みながら、何気ない顔で取り込んでいる。何もかもがちぐはぐで、あべこべで、何か大きな間違いを犯しているような気がする。
昨日殺した男は、死んでも仕方ないようなクズだった。悪行三昧で、恨みを買い過ぎたのだ。それじゃあ、その前に殺した女は? その前に殺した若者は? 老人は? 彼らは死ぬに値する悪人だったのだろうか。
どちらにしたって、くだらない殺し屋なんぞに殺されるに値する人間なんて、この世に存在するだろうか。誰だって、平穏な明日を望んでいるはずだ。その命を、風間は理不尽に刈り取っている。
彼らは二度と穏やかな今日を迎えられない。花見もできなければピクニックもできない。大事な人の顔を二度と拝めない。声を聞けない。話もできない。風間に殺されたからだ。長年この世界で生きているが、こんなことを考えるのは初めてだった。
殺した相手も自分と同じ人間で、それぞれに人生があり、色々なことで悩んだり、悲しんだり、人を愛したり、ささやかな幸せを享受したりしていたはずなのに、それら全てを風間は理不尽に奪っている。そして、その金で呑気に飯を食っている。
しかしこれが、魂にまで染み付いた風間の生き方だ。今更逃れられるものではない。救われたいとも思わない。
「なぁ! このおにぎり、味玉入ってる!」
「ああ。それは当たりだ」
「マジか! だからこんなにでけぇのか」
鶫は頬に米粒をくっつけて、大口を開けておにぎりを頬張る。
「ゆっくり食えよ。誰も取らねぇから」
「おっさんもちゃんと食えよ。あんたが作ったんだろ」
「食ってるよ」
他人の平穏を奪って糧としている自分に、人並みの幸福を享受する資格はない。とは思わない。
世界はそもそも残酷なものだし、そこに生きる風間もまた、所詮は一市民に過ぎない。生業が少々罪深いだけの、普通の人間。市井の穏やかな暮らしを望む権利くらいある。今まではそれを知らなかっただけだ。
けれど、鶫をこちらの世界に引きずり込んでしまったことについては、少しの罪悪感を抱いている。
初めの頃は、そんなことは微塵も感じなかった。鶫は殺し屋として非常に優秀だったし、そもそも、稼業を知られて生きて帰すわけにもいかなかった。
しかし、これでよかったのだろうか、と最近たまに思う。
鶫には、もっともっと普通の、静かで穏やかな暮らしをさせることもできたのではないかと。血腥い仕事も、裏社会の仕組みも知らないままで、大手を振ってお天道様の下を歩けるような、そんな清らかな生き方もあったのではないかと。
風間が鶫の可能性の芽を摘み取ってしまったのではないか。そうだとすれば、それは残酷な罪だ。知らない他人を一人殺すよりも、よっぽど罪深いことだと風間は思う。
孤児の風間を拾い傭兵として育てた師匠も、同じことを思っただろうか。今や確認する術はない。風間が殺したからだ。何も憎かったわけではない。師匠の首には多額の賞金が懸けられていた。そんなつまらない理由で、風間は長年世話になった彼女を殺した。
今にして思うと、自分は余程薄情な人間だ。いや、当時は情などという曖昧なものの存在を信じていなかった。信じられるのはこの身一つ、それから金。それだけだった。今にして思えば、実につまらない人間だった。鶫と会う以前の自分は、身も心も空疎だった。
「おっさん、聞いてんのか?」
「……ああ」
「絶対聞いてねぇだろ。んだよ、ぼさっとしやがって。ねみぃの? 歳だから?」
「違ぇし、そんなおじいちゃんでもねぇよ」
「じゃあ何だよ」
「……たまには、オレの昔話も聞いてくれるか」
「いいけど、それって何十年前の話?」
「何十ってほどじゃ……二十年以上前だな」
「ふは、マジで大昔じゃねぇか」
鶫は唇を綻ばせた。
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