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第六章③ ♡

 雨が降り始めた。風間は急いで荷物をまとめる。   「おっさん、こっちこっち!」    池の畔に張り出した東屋で雨宿りをした。   「はは、結構濡れた」    鶫はぶるぶると頭を振るった。しなやかな毛先から雫が弾け飛ぶ。   「急に降ってきたな。さっきまで晴れてたのに」    ベールを纏ったような薄曇りの空で、雲の向こうには太陽が透けて見えた。東の空には青空が残っている。  しかし雨足は存外に強く、なかなか止む気配がない。絹糸のような雨が、走るように降っていた。  風間はベンチに腰を下ろし、荷物を置いた。鶫も隣に腰掛ける。濡れたパーカーを脱ぎ、Tシャツ一枚の恰好になる。   「寒いだろ。大丈夫か?」 「おっさんこそ、ニットなんか着やがって。暑くねぇの」 「オレはこれがちょうどいいんだよ」    静かな水面に雨がしとしと降り注ぐ。いくつもの波紋が円を描き、広がってはぶつかり、ぶつかっては広がって、やがて吸い込まれるように消えていく。  湖畔の木立に雨がしとしと降り注ぐ。濡れた青葉や、土の匂いが立ち込める。水溜まりに銀の雨粒が弾ける。梢を揺らす雨音のリズムが、静寂の中に木霊する。  雨足は一層強くなる。針のような雨が刺すように降り、東屋の外の風景は白く煙って、薄絹を纏ったように朧げだ。  公園のど真ん中にいながら、世界から隔絶されたように感じた。元いた世界は閉ざされて、二人きりで締め出されてしまったような。   「……やっぱちょっとさみぃかも」    風間の手を鶫が握った。   「あっためてくんねぇの、おっさん」    そっと指を絡める鶫の手は温かい。   「……上着貸してやろうか」 「にぶちん。分かってるくせに」    鶫は風間の手を取り、指先にキスをして甘く噛んだ。   「俺、おっさんのこと何にも知らねぇのな」 「知る必要があるか?」 「おっさんの子供の頃のこととか、若い頃の話とか、気になるっちゃあ気になるぜ」 「おいおい、今も若いだろ」 「今はおっさんだろ。会った時から、あんたはずっとおっさんだ」    鶫は風間の膝に跨って座り、喉にそっと手をかけた。   「もしさぁ、俺があんたのこと殺そうとしたら、どうする?」 「何だよ。そんな依頼が舞い込んだのか」 「もしもの話だって。あんたがあんたの師匠にそうしたみたいに、俺もいつかあんたを殺して、独り立ちするかもしれねぇぜ。そうなったら、あんた一体どんな顔するんだろうな」    物騒なことを言いながら、鶫は恍惚とした笑みを浮かべる。   「オレを殺したいのか?」 「殺したくはねぇよ。今はな」    しっとりと濡れた唇が重なった。鶫は唇まで温かかった。    *   「ふぁ、は、ぁン、あぁっ……」    鶫は対面座位で腰をくねらす。唾液を混ぜ合うキスをする。淫らな水音とあられもない嬌声が、静かな雨音に吸い込まれていく。   「はぁ、あっ、きもち、きもちいっ」 「お前、声……」 「んン、どーせ誰も来ねぇよぉ、この雨じゃあ」 「雨宿りに来るかもしれねぇだろ」 「こねぇってぇ……晴れてる間も、公園全然人いなかったろ?」 「まぁな」 「どーせ桜も散ってっし、雨だし……っ、んなとこ来る物好き、おれたちしかいねーよ」    鶫は乱れた呼吸を整えながら、挑発的に唇を舐める。   「あんたとするセックスは、悪くねぇからな」 「好きの間違いだろ」 「はっ、そりゃあんたの方だ。あんたが、俺の体を好きなんだろ」 「……どっちでも変わらねぇよ」    風間は鶫の緩く勃ち上がったペニスを握った。包み込んだ掌まで溶けてしまいそうなほど熱かった。   「ン、前はすんなって」 「気持ちいいのは好きだろ」 「きもちい、けど……っ」    鶫はぞくぞくと背筋を震わせて、風間にしがみつく。   「あんたの手、ごついのにやさしいからっ……」 「それがいいんだろうが」 「やだ。まだイキたくねぇ、のにっ……」    亀頭を擦ると、中がきつく締まる。それと同じくらい強く、鶫もぎゅうぎゅうと風間にしがみつく。首が絞まって苦しいが、風間も鶫を抱きしめる。   「あァ、んっ、きもちい、きもち、おっさんっ」 「……オレも気持ちいいよ」 「あは、ン、ったりめぇだろ……おれのケツは、サイコーだろうがよ」 「……そういう意味で言ったんじゃねぇんだがな」 「もっと、もっと奥ついて、ぐりぐりして、っ、きもちいのしてくれ……っ」    風間は鶫の口を塞いだ。うるさかったからではない。ただキスがしたかった。強引に唇を割り、奥まで舌をねじ込んで唾液を注ぎ込むと、鶫の喉の鳴るのが分かった。飲み切れなかった唾液が口の端を伝う。黒い瞳はどろりと溶けて、映す光は朧げである。   「ン、ふ……」    鶫の体は燃えるように熱い。触れ合っている部分は、まるで蕩け合って癒着してしまったかのようだ。それでも、時折吹き込む冷たい雨が、風間を現実へと引き戻す。  風間も、本当のところ鶫のことを何も知らない。どうしてずっとここにいるのか、なぜセックスを求めてくるのか。分かっているようで、たぶん何も分かっていない。  ただ、この憐れで愚かな子供は、誰でもいいから愛されたいだけなのだろう。誰かに認められたいだけなのだろう。どこでもいいから居場所が欲しいだけなのだろう。  そうと知りながら、風間は、自分だけが彼の居場所であればいいと願っている。彼を愛するのも認めるのも、自分だけでいいと思っている。このところ、そういった気色の悪い自我が芽生え始めていることに、風間自身気が付いている。  気持ちいいと甘えられる度、もっともっととねだられる度、名前を呼ばれる度に、愛を告げられているように錯覚する。同時に、それは都合のいい幻覚だと理解もしている。鶫が風間をどう思っているかということよりも、風間が鶫に愛されたくて仕方がないのだ。  いっそのこと、鶫に殺されたいとすら思う。己の死は呪いとなって、鶫を雁字搦めに縛り続けてくれるだろう。そうすれば、鶫は一生風間のことを忘れられなくなるのではないか。なんて甘美な呪いだろう。  しかし、それは過ぎた願いかもしれない。鶫は出会った頃と何ら変わらず、明日にはふらっといなくなっているかもしれない、自由で危うい存在なのだ。そして、いざ鶫が消えてしまった時、風間には見つける術はないだろう。たった一度の別れが永遠になる。  だからこそ、これ以上の執着は危険だと、頭では理解している。鶫の言うように、ただ互いの欲を発散するだけの関係でいい。鶫のことは具合のいい穴だとでも思っておけば、それが一番気楽なはずだ。  必要以上の荷物は持ちたくない。いつだって身軽でいたい。それは風間とて同じことだ。今までそうして生きてきた。けれど。   「っあ、あァいく、いくぅ、おっさぁんっ、いくよぉ……っ」 「ああ、イッちまえ」 「いくっ、いぐっ、ん゛ぅっっ――!」    鶫は切なげに声を掠れさせて快楽を訴える。ビクビクと痙攣する肢体を、風間はきつく抱きしめた。  一度知ってしまった蜜の味を、忘れることなどできやしない。    *    いつしか雨は止んでいた。雲の切れ間に七色の橋が架かっていた。これが吉兆なのか凶兆なのか、明らかになるのはきっとずっと後のことだろう。  風間は、膝枕で眠る鶫の頭を撫でた。さらさらとした黒髪を指で梳く。柔らかい耳たぶに触れ、まろやかな頬を伝い、瞼に残る傷痕にキスをする。舌先で軽くなぞれば、ざらりとした感触が伝わった。   「……くすぐってぇ」 「起きたか」 「あんたに起こされたんだ」    鶫は鬱陶しいというような口ぶりで、しかし気持ちよさげに目を瞑ったまま、風間の腰に抱きついた。   「くふふ、おっさんくせぇ」 「悪かったな、おっさんで」 「でも、嫌いじゃねぇぜ」    満足げな鶫の微笑は、満開の桜よりも美しかった。

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