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第5話

 週明けの部活終わりに、ぼくは恭賀と一緒に作ったアレンジパートをみんなに見せた。それぞれのパートリーダーもぼくの意思を尊重するかのように、様々な意見をくれた。ぼくはそれを取り纏め、顧問である甘來(あまく)先生に見てもらうことにした。  甘來先生はパートリーダーたちの意見も含めた楽譜を作ると言って下さった。さすがは音大卒だと思う。普段は厳しいが、柔和な顔つきになって、「よくやったな」と褒められた。ぼくだけの力ではない。みんなで作り上げたものだ。そういったぼくに、甘來先生はとても穏やかな表情を見せた。  本当に素晴らしい演奏というのは、みんなの心がひとつになって、はじめてできるものだと思う。ぼくはそんな体験を、過去に4度もしている。中学2年生の時、初めて吹奏楽コンクールで金賞を獲った。その時のメンバーも、いまのメンバーも、みんなが直向きであるという共通点がある。みんな音楽が好きだ。そして、このメンバーが好きだ。仲違いすることはあっても、それは自分の音楽観の相違からくる主張にすぎない。恭賀と阿笠だって、お互いが嫌いだと言ってはいるが、それほど仲が悪くはないと思っている。  けれど、野球部はどうだろう。なんの理由があるのかは知らないが、殆どの部員が弟子丸くんを無視している。弟子丸くんがひとりで自主練しているのがそんなに気に入らないのだろうか。その努力を認めるという余裕さえないのだろうか。ぼくはスポーツとは無縁だから、彼らの気持ちが解らずにいた。  部室の鍵を閉めたあと、ぼくは3年生専用の下足箱へと向かっていた。話し声がする。ふと顔を上げると、廊下には黒いジャージの上下を纏った、体格のいい青年がいた。彼が話をしているのは弟子丸くんだ。いつものユニフォーム姿ではない。学ランだ。腕時計に視線を落とす。いまはまだ19時を回っていないことを確認し、怪訝に思った。弟子丸くんがこんな時間に学ランに着替えているなんて、いままでにはないことだからだ。 「それで、どうだったんだ?」  少し低めのハスキーボイスには聞き覚えがあった。野球部のキャプテン・奥原翔大だ。奥原の表情はよくわからない。けれど不満げな声だということは分かった。 「大したことない」  かなりの間を置いて、弟子丸くんが言った。弟子丸くんの声は、性格をよく表しているかのように、はっきりとしていて、聞きやすい。曇りのない、澄んだそれは、まだ変声期が終わっていないんじゃないかと思うほど幼かった。 「奥原は心配しすぎ。大丈夫。やれる」 「いまはそうでも、一生を棒にふるったらどうするんだ? 大学でも続けるんだろ?」  弟子丸くんはなにも言わなかった。けれどまっすぐに奥原を見つめている。ふと弟子丸くんが視線を逸らし、自分の左手を見た。よく見ると、左手の小指と薬指には包帯が巻かれていた。  背筋から一気に熱が引いていった。ざわりと身の毛が弥立っていく。それはまさか、笠屋たちの仕業なのでは、――。ぼくは下足箱の陰に隠れ、ふたりの話に耳を傾けた。 「試合まであと3日だぞ。無理だ。とてもじゃないが、隠しきれない」 「テーピングだとごまかせばいい。折れてるわけじゃないんだ」 「それだけ腫れているのになにもないわけがないだろうが」  奥原の苛立ったような声がする。けれど弟子丸くんは引かない。冷静な口調で奥原を呼ぶ。 「なにもない。これはただ、俺がへまをしただけだ」 「まさか病院に行ってないわけじゃないだろうな?」 「保健室で処置してもらった。痛むけど動くから、そのうち治る」  弟子丸くんの意思強い声がした。すぐさま奥原の苛立ちが混じったような溜め息が聞こえる。ぼくは気が気じゃなかったが、ここででていくわけにもいかず、息を顰め、ふたりの会話を見守ることしかできなかった。  頭の中が真っ白だった。弟子丸くんが怪我をした。それも利き手だ。次の試合に出場するなんて絶望的なんじゃないのか。そう考えていたら、ぼくのほうが力が抜けてしまい、下足箱に凭れ掛かるようにして床に座り込んでしまった。 「おい、奥原!」  ふいに弟子丸くんの驚いたような声がした。 「どこ行くんだよ?!」 「監督と、松岡先生に直談判しに行く」 「直談判? なんのだよ?」 「笠屋のことに決まってるだろうが!」  奥原の怒声は初めて聞いた。それは弟子丸くんもだろう。そろりと下足箱の陰から覗きみると、弟子丸くんの顔が強張っていた。 「なんで今までなにも言わなかった! あと2回勝てば、甲子園に出られるんだぞ!? それなのに、部内でこんなことがあっただなんて知れたら‥‥!」 「こんなこと? 誰が、誰になにをしたって?」 「弟子丸!」 「俺はなにもされてないって言ってるだろ。お前が勝手に気を逸らせているだけだ」 「いい加減にしろ! みんな、甲子園に行きたいがために頑張ってるんだよ! 味方に付きたくもない笠屋にへこへこして、干されたくないから睨まれないようにやってるんだ!」  奥原の言葉にも、声にも、偽りなどない。それはぼくにもわかった。けれど弟子丸くんはそんな奥原を鼻で笑って、渡り廊下の壁に凭れ掛かった。 「だからだよ」 「はっ!?」 「だから、なにもされていないって言ってるんだ」  奥原は苛立ったように頭を掻きむしった。やり場のない苛立ちを向けているかのように、くそっと一言だけ吐き捨てた。弟子丸くんのそれは、ある種の覚悟のようにも思えた。自分が笠屋の目の敵にされているのを解っているのに敢えてなにも言わないのは、みんなの努力を無に帰すようなことをしたくないからなのだろう。その直向きさに、鼻の奥がつんとした。 「おまえはそれでいいのかよっ?」  弟子丸くんの返事はなかった。ただ奥原の背中をぽんぽんと叩いて、職員室がある東校舎へと向かって行った。弟子丸くんの足音が聞こえなくなった後も奥原はそこにいた。鼻を啜るような音と、しゃくりあげる声が聞こえる。泣いているらしい。抑えきれない悔しさと苛立ちを発散するかのように大声で喚いている。ほとんどの生徒が下校している閑散とした校舎と渡り廊下との間で、奥原の声が虚しく響いた。 ***  ぼくは奥原のことが気になって、こっそりと後をつけた。奥原が向かったのは、音楽室がある中央校舎の裏手だ。そこには弟子丸くんがいつも自主練をしているサブグラウンドがある。その奥にある倉庫の一角に野球部の用具が納めてあるのだが、そこには笠屋たちが溜まっているのが見えた。  笠谷の笑い声がする。けれど周りの部員たちの顔は少しだけ強張っているようにも見えた。奥原がずんずんとそちらに向かって歩いていく。奥原の存在に気付いた笠谷は、倉庫の壁に凭れて座っていたが、面倒くさそうに立ち上がった。 「珍しくこっちに来ていたんだな」 「部員が用具室にいちゃ悪いのかよ?」  笠屋はまるで奥原を挑発するかのような物言いだ。ふと笠屋たちの足元に視線をやると、そこにはユニフォームらしき衣類が落ちていた。それに気付いたのはぼくだけではなかったらしい。奥原はそれを見るなり笠屋を睨み付けた。 「これはなんだ?」 「は? 知らねえよ。ゴミじゃねえの?」  言って、笠屋がそのユニフォーム目がけて唾を吐き捨てた。次の瞬間、奥原が無言で笠屋の胸倉に掴みかかった。他の部員たちがざわめいた。奥原が笠屋を殴るかと思ったのだろう。ぼくもそう思った。けれど奥原は笠屋の胸倉を掴むだけだ。すごい力で掴んでいるのが解るほど、奥原の腕が震えていた。 「なんだよ? 言いたいことがあるんならはっきり言えよ、キャプテン」  まるで嘲るようなトーンで笠屋が言う。奥原が殴らないと解っているからこそそのような態度に出るのだろう。 「あのユニフォームはなんだって聞いてるんだ!」 「だからゴミだっつってんだろ。いまさらなんなんだよ、いままで見て見ぬふりをしてきたくせに、キャプテン面してんじゃねえぞ」 「おまえ、自分がなにをしたか解ってるのか?」 「はあっ? べつになんもしてねえだろ。あのへたくそが捕球し損ねたから‥‥」 「あと数ミリずれていたら頭に直撃していたかもしれないんだぞ! 指だって骨折しているかもしれない!」 「ふん、部活中のアクシデントなんてよくある話だろうが」 「じゃあこのユニフォームはなんなんだ!? ロッカーだって、グローブだって、部活中のアクシデントでああなったと言いたいのか!?」  奥原の声が震えている。笠屋は鬱陶しそうな顔をして、奥原の腕を掴んだ。 「離せよ、皺になんだろうが」 「答えろ、笠屋!」  奥原が笠屋の体を用具室の壁に押し付けた。他の部員たちは青ざめた顔でそれを眺めている。ぼくは野球部を三年間見続けてきたからこそ知っている。奥原がここまで激昂したことはない。それ故に他の部員たちは狼狽えているというのに、笠屋は度胸があるといえばいいのか、それとも性根が腐っているといえばいいのか、まったく驚いているような表情ではない。寧ろ面倒くさそうにしている。 「ちょっとした遊び心っつーの? べつに本人気にしてねえんだから、てめえが出る幕じゃねえだろうが」  笠屋の声に怒気が孕む。しかし奥原も譲らない。笠屋の胸倉を掴んだままだ。 「使い物にならなくなるほどカッターでずたずたにしておいて、遊び心だと? 図に乗るのも大概にしろよ」 「はいはい、じゃあ憂さ晴らしってことにしといて。どうでもいいけどそろそろ離せ。てめえこそ図に乗ってんなよ」 「笠屋!」 「ああもう、うぜえなあ。弟子丸一匹いなくなって困るやついんのかよ? たかだかまぐれで打てたからって調子に乗りやがって。下手がいくら努力したって所詮クズに変わりねえんだよ」 「‥‥っざけんな!」  ドンと鈍い音がした。奥原は笠屋の体を壁に叩き付けたのだ。今すぐ殴りたいという気持ちが透けて見えるほど奥原が震えている。笠屋はそんな奥原を見て、嫌らしく笑った。 「殴れば? 俺の不祥事は揉み消せるが、てめえにはそんな後ろ盾なんかねえだろ?」  腹が立つほど人の神経を逆なでするような言い方だった。奥原の怒声のあと、部員たちの強張った声がした。けれど、頬を張るような高い音は続かなかった。  おそるおそる奥原たちを見たぼくは、自分の目を疑った。奥原に弟子丸くんがしがみついている。まるで笠屋から奥原を引き剥がすかのように、懸命に両腕で引っ張っているのだ。それを見た奥原は、慌てたように弟子丸くんを呼んだ。 「弟子丸、おまえなんでここに!?」 「下駄箱に奥原の靴があったから」  弟子丸くんの声が震えている。必死さが伝わってきたが、ぼくが助けに入るわけにもいかない。もしここでぼくが出て行けば、きっと弟子丸くんの意思を無駄にしてしまうことになる。 「手を離せ、奥原」 「ゴミ丸だってこう言ってんだ、離せよ」  奥原は弟子丸くんを悲痛な面持ちで見た後、悔しそうに眉を顰め、笠屋の胸倉から乱暴に手を離した。 「くそ、ふざけやがって」  笠屋が奥原の腹を蹴った。その拍子に奥原は弟子丸くんごと倒された。弟子丸くんの唸り声が上がる。奥原が慌てて体を起こすと、弟子丸くんは左手を押さえ、蹲っていた。 「弟子丸、大丈夫か?」  弟子丸くんが首を横に振った。なにも言わず、ただ、横に振るだけだ。 「俺のことはどうでもいい。手なんか出すなよ、奥原」 「なに気取ったこと言ってんだ、クズ丸。俺のコントロールが悪くて頭に直撃せずに済んだんだったら、礼くらい言えねえのかよ?」 「なんでそこまで弟子丸を目の仇にする? お前は弟子丸より遥かに恵まれてるんだ。弟子丸はおまえの何倍もの努力をしている。どうしてそれが解ってやれないんだ?」 「もういいって」 「よくない。ここまで馬鹿にされて、なんで黙っていられるんだ。言いたいことがあれば言えばいい」  奥原の声は、いつもの冷静なものではなかった。よほど悔しいんだろう。震えている。殴りたいほどの怒りを抑えているのが表情からも見て取れる。弟子丸くんはそれを横目に見た後、笠屋に視線をやった。 「俺は、ただ、みんなの力になりたいだけだ」  揺らぎのない声だった。静かで、それでいて重い。言葉数が少ないのに、その一言で気持ちが伝わってくるかのような、――。弟子丸くんが紡いだ静寂を切り裂いたのは、笠屋の舌打ちだった。 「だったらしゃしゃり出てんじゃねえぞ、クズ丸!」  笠屋が弟子丸くんの足を蹴りあげようとした、その瞬間、ぼくは思わず目を伏せた。  鈍い音がした。どさりと誰かが地面に座り込む音が続く。目を開けたらとんでもない光景が待っているのではないか。そう思ったら怖くて目が開けられなかった。 「あ、ごめーん。盛大に手が滑っちゃってぇ」  聞き覚えのあるその声に、ぼくは思わず声を上げた。 「恭賀!?」 「おまえ、市居」  地面に座り込んでいるのは笠屋だった。よく見ると用具室の壁がへこんでいる。その周りに落ちていたのは、テニスボールだった。 「あはは、ごめんごめん。なんだか急にテニスがしたくなっちゃってぇ、一人でボレー練習していたら、思わず。よかった、当たらなくて」  恭賀の表情はいつものように笑っているものの、目が鋭かった。声色は完全に怒っている。恭賀はぼくに近づくと、目配せをして見せた。 「市居、なめてんのか!? 俺に当たったらどうするつもりだったんだ!?」  笠屋が恭賀に掴みかかった。奥原が慌てて止めようとしたが、恭賀はそれを視線で制し、笠屋を睨み付けた。 「あれ? 手が滑ったって言わなかったっけ?」 「はあっ!? そんなんで済むわけねえだろうが!」 「あれ、なんだっけ? えーっと‥‥、あ、そう。アクシデント」  恭賀がぽんと手を叩きながら、笑顔で言った。笠屋の苛立ったような声が聞こえたが、恭賀はそれをものともせずに、笠屋の手首を掴んだ。 「アクシデントっていえば、怪我しても大丈夫なんでしょ? っていうか、俺テニス部員でもなんでもないし。"遊んでた”だけだしぃ。"憂さ晴らし”したくて遊んでたら、“たまたま”、手が滑っちゃったんだ。ごめんね」  それは笠屋が言ったことだった。どうやら恭賀も聞いていたらしい。笠屋はぐうの音も出ないようで、恭賀の胸倉を掴んだまま、悔しそうに顔を歪めていた。 「おい、なにやってるんだ!」  校舎の陰から、先生の声がした。さっきの音や言い争う音を聞きつけてきたのだろう。奥原と弟子丸くんが気まずそうに視線を下げたが、それを上げさせたのは恭賀の明るい声だった。 「せーんせ、ごめんね。俺が遊んでたら手が滑っちゃって、野球部の用具室の壁にボールぶつけちゃった」  えへっと愛想を振りまいて見せる。駆け付けてきたのは生徒指導の先生らしい。どうもケンカじゃないかと思っていたようで、先生は恭賀と笠屋たちとの間に視線を彷徨わせ、恭賀を見た。 「またおまえか」  呆れたように、大きな溜め息を吐く。先生はぼりぼりと頭を掻いたあと、咳払いをした。そういえば、恭賀がこんな事をしたのは二度目だ。合宿の時も、わざと自分のせいにして事なきを得た。 「市居、いまから指導室にこい」 「はーい。ごめんね、笠屋。当たらなくて本当によかった」 「市居っ!」 「先生こわーい。じゃあね、奥原、弟子丸くん」  明らかに笠屋に向けた視線だけは、殺意と怒りをこめていた。恭賀は自分だけが犠牲になるつもりなのだろう。 「恭賀」  自然と恭賀の名前を呼んでいた。恭賀はそれに気付いたかのように、ぼくに視線をよこし、いつものように目配せをする。大丈夫。心配しないで。恭賀の目はそう言っているように見えた。

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