6 / 16

第6話

 ぼくは二日後の試合には足を運ばなかった。旧校舎にある図書室の、いつもの席に伏せて、グラウンドから聞こえてくる運動部の声を聞いていた。  あのあと、ぼくは初めて弟子丸くんと話した。その内容は『いまのは見なかったことにして欲しい』だった。正直に言って幻滅した。スポーツは清々しいものだと思っていた。ぼくには無縁の世界だから、憧れでもあったのだろう。吹奏楽部をはじめ、ほかのどの文化部よりも、仲間同士のつながりが強く、目標に向かって弛まぬ努力をするものなのだと。けれどそれはぼくの理想だったのかもしれない。  ぼくが知らないだけで、現実はそうだったのかもしれない。バドミントン部のあの子も、ぼくが写真を撮ったせいで、もしかすると仲間たちから妬まれ、肩身の狭い思いをしているんじゃないか。陸上部の子も、サッカー部の子も、ぼくが知らないだけで、弟子丸くんみたいな目に遇ってきたんじゃないか。そんな疑心暗鬼が、ぼくの心を億劫一色に塗りかえてしまっていた。  今日は部活を休むと言った。知子も、そして甘來先生も驚いたような顔をしていた。この三年間、写真に時間を費やしながらも、部活を休んだことは一度もなかったからだ。遅れても必ず参加する。遅れたらそれ以上に練習をする。そのスタンスを崩さずにやってきた。でも、いまのぼくには、それができそうになかった。  図書室の扉が開く音がした。ぼくは視線すら向けない。そこにいるのは恭賀だと解っているからだ。 「試合、勝ったって」  それは別の声だった。恭賀のものとは違う。まっすぐで、澄んでいて、実直な性格をよく表している、――。思わず、弾かれたように体を起こしたぼくの目に映ったのは、弟子丸くんだった。 「どうして、ここに?」  弟子丸くんはなにも言わず、ぼくの横をすり抜け、外から吹き込む風に遊ばれているカーテンを開けた。 「本を返しに来ただけ。ずっと、借りっぱなしだったから」  弟子丸くんが持っていたのはスポーツ科学の本だった。本の帯には投球障害と書かれているのが見える。弟子丸くんは窓際から本棚へと向かい、この一年、ずっと開いていた本と本との隙間に、それを埋め込んだ。  試合には出なかったの? なんて、聞けるわけがなかった。弟子丸くんがここにいるということは、そういうことだ。ぼくは何故か痛む胸を弟子丸くんに気付かれないように擦って、彼の動きを目で追った。  彼はなにも言わず、図書室から出ようとした。 「邪魔して悪かったな」 「あ、ううん。考え事をしていただけだから」  とっさにそう返したとき、弟子丸くんと目が合った。まっすぐな目だ。見ているだけで、吸い込まれてしまいそうなほど。一気に胸が高鳴ったぼくを少しの間注視して、弟子丸くんは小さく頭を下げた。 「黙っていてくれて、助かった」  それは暗に、あの日のことを言っているのだろう。ぼくはなにも返さなかった。 「間違ってるって、解ってる。解ってるんだ。ちゃんと」  それだけ言って、弟子丸くんは図書室を後にした。がらがらとドアが閉まる音がする。その間、ぼくは何度も弟子丸くんを呼ぼうとした。けれど臆病になってしまっているぼくの喉は、彼の名を紡ぐことすら、声を出すことすら拒んでしまった。図書室の扉が閉まった後、弟子丸くんの足音が遠ざかっていく。ぼくはその音を聞きながら、やり場のない感情を拳と共に机に叩き付けた。 ***  部室にも顔を出すことなく、ぼくはそのまま家に帰った。父が置いて行ったデスクトップパソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ。ほどなくして立ち上がった後、ぼくはインターネットに接続し、検索ボックスにある単語を入力した。  投球障害。その単語だけでかなりの情報量だ。何気なく、2、3番目に表示されているURLをクリックする。そして表示されたページには、野球選手が陥りやすい肩と肘の障害のことが記されていた。  もしかして、弟子丸くん自身がその投球障害なのだろうか? ふと思いながら、ページを下にスクロールしていく。そのページにはいくつかの投球フォームのイラストが載せられていた。その中のひとつを見て、ぼくは目を瞠った。弟子丸くんの投球フォームだ。間違いない。いままで何度も見てきた。最高の一瞬を逃すまいと、ストロボ写真を撮った時のものと同じだ。  そこには、スムースな運動連鎖により肘や肩への負担を最小限に抑えることが出来ると書いてあった。そのすぐ下にあるイラストにも見覚えがある。去年までの笠屋の投球フォームだ。肩、肘に最も負担がかかる、悪い例とまで書かれている。ぼくは何故弟子丸くんが笠屋に目をつけられることになったのかを考えた。  弟子丸くんがスポーツ科学の、それも投球障害をクローズアップした本を一年も借りていた。それはもしかすると、自身の投球フォームをよりよくするためもあるかもしれないが、笠屋の為を思って勉強していたのではないか。いや、笠屋だけではなく、チームの為だ。このチームで勝つ為。甲子園に行く為に、――。ぼくはすぐさまタブを閉じ、パソコンの電源を切った。  鞄に入れっぱなしにしていた携帯を取り出し、ディスプレイを見る。恭賀や知子からメールが着ている。ぼくはすぐに通話アプリを開いて、恭賀に電話を掛けた。 「もしもし、恭賀?」  恭賀の声がするや否や、ぼくは有無を言わせぬ勢いで、恭賀を呼んだ。 「ごめん恭賀、用事がなかったら来て欲しいんだ。甘來先生からもらった楽譜、コピーさせて」  ぼくが矢継ぎ早に言ったからだろう。恭賀は電話越しに吹き出した。 「明日でいいんじゃない? どうせ明日みんなで音合わせをする予定だし。綾ちゃんなら初見で吹けるでしょ?」 「それじゃダメなんだ。いますぐ吹きたい」  決勝戦に向けて、ぼくの意欲を高めるためにも。それは敢えて恭賀には告げなかった。けれど恭賀はなにかを悟ったように笑った。 「いいよ、解った。20分後くらいに行くよ。楽譜と、トランペットを持って」  恭賀はぼくの言いたいことをすべて理解してくれていた。 「ありがとう」  恭賀が笑う。 「綾ちゃんのそれには慣れてる。じゃあ、あとでね」  言って、恭賀が電話を切った。ぼくの“それ”というのは、突然入るやる気スイッチのことを言っているのだろうか。なんとなく釈然としなかったが、ぼくは恭賀が来るのを待った。  20分も経たないうちに恭賀がやってきた。チャイムを押した後でぼくの名前を呼んだから、すぐにわかった。ぼくは2階から降りて、玄関のドアを開けた。 「綾ちゃん、ご機嫌いかが?」  ぼくが部活を休んだことを暗に責めているのかと思うほど、挑発的な言い方だった。 「なかなかにいい気分だよ」  すぐさま言い返す。すると恭賀は少し首を傾けて、口元を綻ばせた。 「それはよかった。みんな、綾ちゃんのことを心配していたからね」 「ごめん。明日みんなに謝るよ」 「そうだね。約3名、心配症が着いてきたけど、いいでしょ」 「え?」  恭賀に言われて後ろを見ると、知子と万理加、そして阿笠がいた。みんな楽器を持っている。ぼくは恭賀がなにをしたいのかに気付いて、笑うしかなかった。 「傷心の綾ちゃんにはちょうどいいと思って。クリスティーなんか帰りが遅くなるのを覚悟で来てくれたんだから、ありがたく思いなさいよ」 「おい市居、余計なことを言うな」 「事実だろ? 万理加とチコは俺が送るから。綾ちゃんも付き合ってね」  えへっと恭賀がおどけて見せる。ぼくは自分の顔がどんどん晴れていくのに気付いた。やっぱり、ぼくたちはみんな、おなじ目標を持っている。おなじように、みんなでちゃんと演奏したいと思っている。ぼくは嬉しくなって、思わず恭賀たちの肩を抱いた。 「ごめんね、心配かけて」  みんなはなにも言わない。ただ安心したように笑っている。 「明日の音合わせまでに完璧に仕上げるから、少しだけ、練習に付き合って」 「その気じゃないとこねえよ」  阿笠が照れたようにぶっきらぼうな言い方をした。 「そうです。綾羅木先輩のお役にたてるなら、なんでもします」  万理加が言う。いつも門限を気にして、練習が終わったら真っ先に帰ってしまう。門限を設けるほど厳しい親を説得してまで来てくれたのだろうか。ぼくは万理加の頭を撫でた。 「ごめんな」  万理加が首を横に振る。 「わたしの夢を叶えてくれたから、今度はわたしが先輩たちを助ける番です」  それは去年の全国大会のことだろう。小学校の時から吹奏楽部一本でやってきた万理加だが、全国大会で金賞を受賞したことがなかったのだという。それはぼくだけの力ではない。みんなの力だ。ぼくは素直にありがとうと告げ、4人を家に招き入れた。  うちには地下室がある。母は昔からトランペットを吹いていて、その練習用にと父が造ったのだと聞いている。1年前まではぼくの練習用スタジオ兼父の仕事部屋だった。  地下室に下りて、ぼくは恭賀に借りた楽譜を読み解くことに専念した。甘來先生が纏めた楽譜がなにを意味しているのか。なにを表現しようとしているのか。元々10分(テンポによっては12~3分のこともある)近くある楽章がたった数十小節に短縮され、そのなかに曲想と、この楽章が持つ様々な意味が凝縮されている。とても深く、重い。正直に言って、出来栄えの想像がつかなかった。  ぼくが楽譜を読んでいる間、他のみんなは楽器を組み立てたり、思い思いに練習をする。いつもはトランペットの音だけが響くこの地下室だが、トロンボーン、ホルン、クラリネットの音が混ざり合い、一層抒情的に聞こえる。ただの音ではない。みんなの声だ。なにかの為に打ち込みたいと思う、みんなの願いが楽器の音色と化している。他にはない音色だ。ぼくたちだけの。特別な、――。ぼくはふうっと息を吐いて、恭賀から借りた楽譜を譜面台に置いた。 「お待たせ」  ぼくが声を掛けると、それぞれが練習していた手を止め、こちらに視線を向けた。 「もう大丈夫なの?」  知子が言う。ぼくは頷いた。 「テンポは188でいいよね?」  恭賀が何食わぬ顔で言うと、阿笠たちが一斉に信じられないとでも言うような、批判的な声を上げた。 「いきなりかよ!?」 「綾は初見でしょ? せめてもう少しテンポを落としてもいいんじゃ」 「そう? できるよね?」  挑戦的な視線を向け、恭賀が言う。ぼくは恭賀を横目に見て、鼻で笑った。 「問題ないってさ。じゃ、テンポ188で、通しでやってみよう」  阿笠が呆れたような顔をする。恭賀がぼくに対して辛辣なのは部活中だけだ。いくらサボり癖があるといっても、ファーストのプライドがあるのだろう。ぼくはみんなに視線を送り、トランペットを構えた。メトロノームの軽快な音がする。知子のクラリネットのトリルが演奏の始まりの合図だ。ぼくと恭賀は視線を合わせて演奏に乗り、クレッシェンドしていく。それに阿笠、万理加が重なった。  オーケストラ版ではヴァイオリンが奏でるところを、アレンジの短縮版ではすべてクラリネットとトランペットの一部が行う構成になっている。途中から恭賀がセカンドパートを吹き始めた。完全に挑発だ。今日ぼくが部活に出なかったことに対する腹癒せだろうとすぐにわかった。ぼくは恭賀のそれに負けないよう、必死で食らいつく。  重厚感を保ちつつ軽快に。転調し、ホルンが明るく、そして勇ましく曲の雰囲気を盛り上げる。しばらくホルンが主役の小節が続き、そこにトランペットが混ざっていままで旋律を吹いていたクラリネットとスイッチした。トロンボーンの太く、激しい音が迫ってくる。知子のパートはとても遽しく忙しい。まるでなにかが起こって慌てているかのような音の嵐にぼくが乗り、一気にハイノートへと持っていった。阿笠、万理加、恭賀、知子がそれぞれバックアップするようにぼくの音を盛り立てる。ぼくはその音に背を預けて、最後のトランペットの主線を吹きあげた。ひとつだけ音が抜けるように。まるで一人がスポットライトを浴びているように。周りの旋律と共にスポットライトが徐々にフェードアウトしていく中、歓声を模したトロンボーンとホルン、トランペットの音が一気に加速した。  全ての小節を吹き終えた後、ぼくは少しの間放心状態だった。興奮のせいで全身の毛穴が開いているかのような感覚だ。これに他の木管楽器、パーカッションが加わったら、決勝戦の相手校・中村学園の応援にも負ける気がしない。いや、甲子園に出場できたとしても、ほかの学校に引けを取らないだろう。ぼくはごくりと喉を鳴らした。 「あくまちゃんが、テンポ188じゃなくてテンポ200でやってもいいんじゃないかとか言っていたよ」  ふいに恭賀が言った。ぼくは思わず苦笑を漏らした。ぼくはよくても木管が死ぬんじゃないかと思うほど激しい。ちらりと知子を見ると、知子は苦い顔をしていた。 「本当、甘來先生じゃなくてあくま先生だよね。せっかくのアレンジだからもうちょっとテンポを早くして攻撃の間に全部吹き終わりたいなんて言っていたのよ」 「先生のおっしゃることは一理あると思います。まあ、かなりきついですけど」 「相手の攻撃中は休んでもいいって言ったって、演奏するのはこの曲だけじゃないからな」  みんなが口々に言う。ぼくは少し考えたあと、ふと考えたことをみんなに伝えることにした。 「この曲を、朋誠のテーマみたいにしてしまえばいいんじゃないかな。ほら、天理高校はファンファーレを自校の応援曲みたいにしているじゃない。ぼくはこの曲は弟子丸くんにぴったりだと思った。だけど、弟子丸くんだけが頑張っているんじゃない。彼の頑張りは、みんなのための頑張りだった。『苦悩から歓喜へ』っていうこの楽章の曲想は、いまの野球部にぴったりだと思うんだ」  ぼくの台詞を受けて、万理加が静かに頷いた。 「いいんじゃないでしょうか。そういう伝統は好きです」  万理加を見て知子が笑う。知子はそうねと言って、目を伏せた。 「この曲はみんながひとつにならないと纏まらない。部員の士気を高めるきっかけにもなるかもしれない」 「じゃあ今度の定期演奏会に5番4楽章を追加するか?」  やけくそと言わんばかりの半笑いで阿笠が言う。恭賀はそれを意地悪く皮肉った。 「最初と最後、どっちにする? どっちにしてもみんな力尽きるかもね」  恭賀が言ったら、みんなは全くだと言わんばかりに笑った。 「楽しみだね、決勝」  知子は満足げだ。これで勝てたらぼくたちはまだ一緒に演奏することができる。ぼくはみんなと目を合わせ、力強く頷いた。

ともだちにシェアしよう!