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第8話

 決勝戦の舞台は市内の隣の地区にあるスタジアムだ。ぼくたちは野球部よりも少し早めにやってきて、音出しの練習をしていた。マウスピースに息を吹きこみながら、ウォームアップをする。開始予定時刻は11時。それは刻々と迫ってくる。ぼくは逸る心を抑えきれずにいた。  館内放送がかかる。ぼくたちはスタジアムの観客席に入った。グラウンドではみんながバッテリーが投球練習をしているのが見える。ベンチには弟子丸くんの姿がある。ぼくはそれをみて、一気に胸が高鳴った。 「もし弟子丸くんに打順が回ってきたら、ファーストは頼むよ」  隣にいる恭賀に伝える。恭賀はふうっと息を吐いて、頷いた。 「最初からそのつもりだよ。でもそれ以外で俺をソロにしたら一生赦さないから」  ぼくは笑った。そんなつもりなどない。いま、ここで吹けるのは、この瞬間しかないからだ。  試合が始まった。中村学園のピッチャーはそこまでではないが、守備がいい。特筆するとすれば部内がよく纏まっている。先攻の朋誠高校が攻撃を始めてすぐに、前評判通りのその守備の良さが光った。  一番打者・奥原、内野ゴロでワンナウト。二番打者・渡谷、ピッチャーゴロでツーアウト。三番打者・川地、高く打ち上げてしまい、スリーアウト。みんなかなりいいところに打ったが、相手チームの好守備に防がれた。渡谷は俊足で有名だが、それよりも相手の肩の強さが勝ったといったところだろう。スリーアウトに終わったところで、ぼくたちは演奏をやめた。後攻め、中村学園。アナウンスをされたところで、朋誠高校と中村学園のベンチの中の表情は全く違っていた。  それから朋誠学園は6回表まで、中村学園の守備の良さと団結力に悩まされた。笠屋、そして赤碕共に相手打線に捕まった。5回裏までに朋誠学園は5点を失った。まだ逆転の可能性はある。監督に奥原が呼ばれた。奥原はキャッチャーをやりながらも中継ぎとしての登板経験もある。だから奥原が次の回から投げるのだろう。そう思っていたが、6回裏に登板してきたのは、奥原や赤碕たちよりも一回り以上体の小さな、弟子丸くんだった。  テンションが上がった周りの観客が一斉に声援を送る。準々決勝でも、そして練習試合でも弟子丸くんが流れを変えたことはみんな知っているのだ。赤崎と笠屋は二人でなにかを話している。奥原だけが弟子丸くんに声を掛けた。弟子丸くんが振り返る。なにを言ったかはわからない。弟子丸くんはいつものように、野球帽を軽く持ち上げた。  ぼくはとっさにカメラを持ち、応援部がいるスタンドへと降りた。  弟子丸くんが構える。細い腕がしなり、硬球が飛ぶ。けれどそれは地面を抉り、観客席から嘆息が聞こえた。ワイルドピッチだ。弟子丸くんはぶらぶらと左手を振り、何度か頷いている。奥原が心配そうにしているのが見て取れた。  再度弟子丸くんが構え、投げる。鈍い音がして、ボールはファウルボールとなった。すぐに奥原がタイムをとり、弟子丸くんに近づこうとする。けれど弟子丸くんは首を横に振り、肩を上下させながら息を吐いた。  相手チームの応援歌の音が響く。かなり練習してきたのだろう。足並みがそろっているのは野球部も、吹奏楽部も同じようだ。  弟子丸くんの硬球は、それを掻き消すかのように奥原のミットに吸い込まれた。相手は大きく空振り、よろめく。かなりテンポよく弟子丸くんが投げる。ストライク2本を立て続けに奪う。相手打者が構えたのを見て、弟子丸くんが投げた。 「ストライク! バッターアウト!」  主審の声が響く。わっと歓声が上がった。弟子丸くんは帽子を少し上げ、また肩を上下させた。  相手打者が変わる。下位打線。この下位打線がかなり曲者で、笠屋も、赤崎も打たれてしまった。けれど弟子丸くんは臆する素振りも見せず、淡々と投げた。 「ストライク、バッターアウト!」  ツーアウト。朋誠高校のベンチがざわついているのが解った。 「弟子丸先輩、ファイトっす!」  誰かが叫んだ。あの日、笠屋と共にいた後輩だ。  弟子丸くんは静かに天を仰ぎ、首を横に振った。奥原のサインを見て、弟子丸くんが投げる。  快音が響いた。ボールは悠々と空を飛び、ライト方面に伸びていく。相手チームの声援が更に大きくなる。けれどそれを掻き消したのは、ライトに入っていた赤碕だった。  スリーアウトだ。赤碕は小走りで戻ってくると、弟子丸くんを一瞥し、ベンチに戻って行った。  7回表、こちらの攻撃だ。弟子丸くんは二番に入った。好都合なことに、打順は九番からだ。ぼくたちは楽器を構え、コパカバーナから、あの曲へと応援曲を変更した。  木管のトリルとティンパニーの音を皮切りに、金管楽器が一気に攻め立てる。音楽の力を背に受け、みんなの闘争心が再び燃え上がることを祈って、ぼくたちは吹いた。  九番打者・小菅が打った球は、レフトに伸びた。大きく、大きく弧を描いたそれは、フェンスに当たり、相手のレフトはそれを捕球し損ねた。 「走れ!」  奥原の声が響いた。小菅が走る。一塁ベース、二塁ベースと踏んだところでボールが相手キャッチャーの元に戻った。  一番打者は奥原だ。弟子丸くんになにかを言ったあと、ヘルメットを被り、バットを構えた。1球目、2球目と見送る。そして3球目。奥原がコンパクトにスイングした。響く快音。ボールの芯を捉えたのだろう。ボールは高く上がり、そしてフェンスを越えた。曲調と共に一気に興奮が加速した。  ホームラン。小菅がホームベースを踏む。奥原もダイヤモンドを回り、ホームベースを踏んだ。2点追加。5対2。あと3点取れれば勝てる。ぼくたちは興奮していたが、彼らを盛り立てるために吹いた。  いよいよ弟子丸くんの番だ。弟子丸くんが構える。左打ちの弟子丸くんは、相手チームのピッチャーに取ってやりにくいだろう。背が低いからストライクゾーンも狭くなる。相手ピッチャーは何度もキャッチャーからのサインに首を振っていたが、やがて首を縦に振り、構えた。  そのボールは弟子丸くんの腕に当たった。ベンチやスタンドから悲鳴が聞こえた。ピッチャーは帽子を取り、頭を下げる。弟子丸くんは腕を押さえたまま動かなかった。左手だ。すぐに主審がゲームを止め、朋誠高校のベンチから後輩が飛び出てきた。左手にスプレーを掛ける。弟子丸くんはゆっくりと立ち上がり、一塁に向かった。けれど代走が用意された。弟子丸くんに負担を掛けるわけにはいかないと監督が判断したのだろう。 代走の渡谷が走る。勢いよくヘッドスライディングし、間に合った。三塁まで進塁、三番は二塁で止まった。四番、赤碕。コールされた瞬間、アルプスから悲鳴にも似た声援が上がった。  赤碕は打った。初球、甘めに入ったスライダーを見事に引っ張り、センター前ヒット。渡谷はその間にホームベースを踏んだ。5対3。あと3点。  笠屋も打った。赤碕が三塁まで進塁、笠屋は一塁で止まる。二塁まで進塁できそうにもあったが、保険を掛けたのだろう。しかし六番七番、八番とアウトをとられ、こちらの攻撃は終了した。  7回裏、中村学園の攻撃。ピッチャーは弟子丸くんだ。弟子丸くんは腕に違和感があるのか、投球前に何度も腕を気にしていた。奥原がなにかを話しかけたが、弟子丸くんは首を横に振り、取り合わない。ぼくたちは心配したが、その心配など不要だと言わんばかりに、弟子丸くんの投球は見事だった。最初のバッターだけは三振に押さえ、あとは打たせて取るピッチングだ。投球に威力があるのか、相手バッターは思うように飛ばせず、苦労しているように見える。 「すごい、勝てるかも」  恭賀が呟いた。スコアにはゼロが並んでいる。弟子丸くんが登板してから、中村学園には得点がない。ぼくはごくりと喉をならした。  8回表。九番・小菅は打ち取られ、奥原はライト前ヒットを放った。弟子丸くんの番だ。弟子丸くんはバットをかなりコンパクトに構えている。相手ピッチャーのボールは鈍い音と共にファール側へと飛んでいった。再び弟子丸くんが構える。その後三球見極め、ツーボールツーストライク。弟子丸くんが打てば、三番、そして四番赤碕へと打順が回る。   弟子丸くんが打った。ボールはぼてぼてのショートゴロだ。けれど相手守備にエラーのエラーに救われ事なきを得たが、三番打者は三振に終わり、得点は上げられなかった。  八回裏。三塁まで進塁され、あわや一転追加されそうになる場面があるも、ショートの笠屋が器用にボールをさばき、ダブルプレーをとった。次を押さえれば、こちらの攻撃に変わる。 弟子丸くんが投げた。そのボールはまたワイルドピッチ。奥原はフェイスマスクを取り、弟子丸くんに駆け寄った。弟子丸くんが首を振る。何度も、何度も首を振る。奥原は苛立ったような顔で弟子丸くんの肩を掴んだ。弟子丸くんは俯いている。ちらりと左手を気にしたようにも見えたが、意を決したように顔を上げ、奥原に持ち場に戻るよう指示した。  奥原がサインをだし、ミットを構える。弟子丸くんは力を抜くように肩を揺らしたあと、短いスパンで構え、投げた。そのボールは見事に奥原が構えるミットに吸い込まれた。その次も、その次もストライクだ。 「バッターアウト!」  スリーアウト。笠屋たちがベンチに帰るなか、弟子丸くんはその場に立ち竦んだままだった。奥原が駆け寄るまえに、弟子丸くんの体が大きく傾いた。慌ててて奥原が弟子丸くんを支える。珍しく赤碕が心配そうな面持ちで近寄った。主審と奥原が話している。主審は救護班を呼び、弟子丸くんは担架で救護室へと運ばれた。  弟子丸くんが救護室に運ばれた後、試合はすぐに再開された。9回表。あと3点。  四番赤碕からだ。赤碕は奥原となにかを話したあと、神妙な面持ちでバッターボックスに向かった。ヘルメットをかぶり、バットを構える。初球打ち。素早く一塁を踏み、セーフ。  五番、笠屋。笠屋が打った球はフェンスに当たって軌道が代わり、またも相手にエラーがついた。エラーに救われ、赤碕が三塁、笠屋が二塁へ。  六番、西納。西納が打ち取られ、ワンナウト。  七番、大沢。三遊間を抜ける痛烈なライナー。赤碕がホームベースを踏み、一点追加。5対4。笠屋は三塁へ、大沢は二塁を回る。  八番、古城。粘りに粘って見極め、フォアボールを選択。満塁。  九番、小菅。スクイズからのサードゴロ、相手サードが軽やかに裁き、ツーアウト。打順は一番に帰った。  一番、奥原。ベンチからバッターボックスに向かうまでの間、誰かと話しているのが見えた。弟子丸くんだ。無事に戻ってきたらしい。弟子丸くんはベンチに体を預けたまま、肩と肘をアイシングしている。   奥原は見事だった。相手ピッチャーがここぞと言うときに投げてくる急角度で落ちるスライダーには手を出さず、ストレート一本に絞って狙った。その粘りが功を奏して、レフト線ギリギリまで引っ張った。笠屋、大沢が次々にホームベースを踏み、二点追加。5対6。逆転。ぼくたちの応援にも熱がこもる。  二番、弟子丸くん。コールされたとき、スタンドがざわめいた。まさか出てくるとは思わなかったのだろう。これには相手のアルプスからも声援がとんだ。 弟子丸くんは深くヘルメットをかぶり、構えた。 初球見送り、ストライク。二級目見送り、ボール。三球目、手が出そうになるも、止まる。鋭く落ちるシンカー。ツーボール。 弟子丸くんはバットを体から少し遠ざけた。  天を仰ぐ。ぼくはトランペットを置かなかった。打つまで吹きたい。後押ししたい。応援曲はティンパニーの轟きに戻っていた。弟子丸くんが構える。相手ピッチャーが振りかぶり、投げた。空振り。次の球に弟子丸くんは手を出さなかった。  スリーボールツーストライク。弟子丸くんはまた頭を振ったが、すぐに構えた。 吹奏楽部の応援は、まさに弟子丸くんの、いや、野球部の心境を体現しているかのようだった。ざわめき、淀み、慌ただしい。そんななかで、弟子丸くんが打った。快音が響き、相手外野がボール目掛けて走る。  ぐんぐん伸びたボールは、ライトに落ちた。すんでのところで掴めず、ヒットになる。この時、ぼくたちの演奏は歓喜へと差し掛かっていた。   古城がホームベースを踏んだ。奥原も続く。無心に走り、栄光を手にする。歓声を掻き消すように、ぼくと恭賀のハイノートが響く。弟子丸くんはふらつきながらも走り、一塁ベースを踏んだ。   長い長い攻撃だ。これには相手も怯んだのだろう。ピッチャーの交代が告げられた。 変わったピッチャーの球はやはり見極めにくい。今回はあまり当たっていなかった三番の川地は内野ゴロを打つもミスなくボールをさばかれ、スリーアウト。ここで、ぼくたちの長い長い応援も終わった。  ぼくは目の前で起きていることが信じられなかった。9回裏、マウンドに向かおうとする弟子丸くんを、誰かが制した。奥原ではない。赤碕だ。赤碕がなにかを言っている。弟子丸くんの表情は見えない。赤碕と奥原の申し立てにより、監督が主審になにかを告げにいった。  アナウンスが流れる。ピッチャーの交代だった。弟子丸くんに代わり、赤崎くん。赤碕のポジションには2年生が入ることになった。 ぼくはすぐさまスタンドを降りた。ベンチの一番前には弟子丸くんがいた。やり遂げた、清々しい顔だ。視線は赤碕に向いている。その頬には涙が伝っている。ぼくは夢中でシャッターを切った。弟子丸くんが笑っている。満面の笑顔ではない。けれど、紛れもなく彼の心からの笑顔だった。  ――試合は無事に終わった。県大会初優勝。甲子園の切符を掴んだ。ぼくたちは抱き合って喜んだ。知子も、ヒロも泣いている。万里加なんて阿笠に支えられるほど嗚咽を漏らした。そして恭賀は、感極まったようにぼくの肩を掴んだ。ぼくは恭賀に抱きついた。恭賀の腕がぼくの背中に回ってくる。 「勝った」 「一緒に観てたじゃない」 「勝ったよ、恭賀」  ぼくは人目も憚らず、恭賀に抱きついたまま、泣いた。 素直に嬉しかった。甲子園に行けることも。恭賀とまた感動を分かち合えたことも。そして、赤碕が弟子丸くんを労ってくれたことも、全部。  朋誠高校の校歌がスタジアムにこだまする。ぼくたちは声を震わせながら懸命に声を出したんだけど校歌を熱唱することで野球部の栄誉を讃えた。

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