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第9話

 夏休みに入り、ぼくたちは忙しさを増した。最後の定期演奏会の為に猛練習をするためだ。  あの決勝戦を境に弟子丸くんは自主練をしなくなった。ぼくも部室に籠っているから、普段部活に参加しているのかどうかはわからない。確認する暇もないほど慌ただしく時が過ぎていき、気がつけば定期演奏会の前日だった。  ぼくは楽譜を見ながら息を吐いた。決勝戦を体現するかのように壮大な演奏ができますように。そう願いを籠めここにいる。隣には恭賀がいる。あの日から溝がなくなったように思うのは気のせいではないだろう。恭賀はぼくの横でコーラを飲みながら夜空を見上げていた。 「綾ちゃんさあ」  ふと恭賀が言った。 「弟子丸くんに告白しないの?」  ぼくは呆気に取られ、返答ができなかった。 「好きなんだろ? 俺、応援するって言わなかったっけ?」 「い、いや、応援するって言ったって」 「フラれるのが怖い?」  ニヤリと笑いながら、恭賀。あながち間違ってはいないが、ぼくは首を横に振った。 「それ以前の問題だよ。そもそもぼくと弟子丸くんは、告白するしない以前にそこまでの仲でもない」 「そこまで仲じゃないなら告白できないの? 嘘、はじめて知った」  大袈裟に恭賀が驚いて見せる。ぼくは恨めしそうに恭賀を睨んだが、彼の言うとおりだった。そこまでの仲じゃないというのは単なる言い訳だ。実際は告白して弟子丸くんから妙な目で見られたくないだけだった。男同士だ。おかしいと思われるに決まっている。だからぼくは敢えて気持ちを圧し殺す方法を選んだ。それだけだ。 「言っただろ? ぼくは彼を偲ぶ。それだけでいい」 「相変わらず綾ちゃんは甘いなあ。それで済ませられるなんて、まるで聖人みたいだ」 「手に入れたいなんて、贅沢なんだよ。弟子丸くんを見ているだけでいい。もしかすると、彼を好きなわけじゃなくて、彼の最高の一瞬をカメラに収めたいと思ったことで、そんなふうに錯覚してしまっただけなのかもしれない」 「そう思ったきっかけは、彼を好きだからじゃないの?」  それって体のいいすり替えだよね? と、恭賀。ぼくは首を横に振った。 「それでもいい。それより」  ぼくが話の筋を変えると、恭賀は不満げな顔をそのままに、ふいと顔をそむけた。 「明日がんばろう、でしょ。解ってる。ちゃんとやるよ」  素っ気なく言って、恭賀が立ち上がった。 「綾ちゃんって、難解だなあ」  ぼやくように言ったあと、恭賀は此方に振り返って、続けた。 「もし明日、綾ちゃんが思う最高の音が集ったと思ったら、俺の話、ちゃんと聞いてね」  ぼくは頷いた。恭賀にはなにか言いたいことがあるんだろう。そのあと、いつもの路地に差し掛かるまで、ぼくと恭賀は一言も話さなかった。 ***  定期演奏会は無事に終局を迎えていた。最後の曲は、ショスタコーヴィチ交響曲第5番、4楽章。ぼくは練習どおりにマイクを持ち、まず会場に向かって頭を下げた。 「この曲は、朋誠高校野球部の応援に行かれた方には、聞き覚えがあるかと思います。  本来なら応援曲にふさわしい曲調ではありませんが、ぼくたちはこの曲が持つ曲想を、野球部のみんなにあるであろうひとつの気持ちに重ね合わせ、選びました。この曲は、苦悩から歓喜へという、人の中にある感情を表していると言われています。  これは野球部だけに限りませんが、勝つためには努力をします。それを継続するなかで、挫折、苦労、仲間とのぶつかり合いなど、様々な障害があるでしょう。ですが、それを乗り越え、試合に勝てば、それは歓喜に変わります。その気持ちは、スポーツをされたことがある方には分かるかと思います。ぼくたちはそれを表現するために、この曲をアレンジして、応援曲としました。  原曲である4楽章はかなり長い曲ですが、ぼくたち吹奏楽部が、このメンバーで、最後に演奏する曲です。最後まで聞いて頂けたら幸いです」  ぼくは会場に向けて頭を下げた後、マイクを係りの女性に手渡した。  席に戻ると、恭賀が薄く笑っていた。ぼくは恭賀と拳を突き合わせ、トランペットを構えた。 ***  定期演奏会が終わった後、会場の片付けをしていたぼくは、誰かに呼び止められた。弟子丸くんだった。声を掛けられたことに驚いたぼくを見て、弟子丸くんはなにかを言いたげに難しい顔をする。ぼくが首を傾げると、弟子丸くんは短い髪の中に指を突っ込んでガシガシと頭を掻くと、ふうっと息を吐いて、ぼくを見た。 「あの曲、あんな意味があったんだな」  ぼくは頷いた。 「マウンドに立った時、聞こえた。やたらと勢いのあるトランペットの音に、思い切って投げろって言われたみたいで、気が付いたら、指が痛いのも忘れて、投げていた。あれ、おまえだったんだな」  弟子丸くんは無表情だ。けれど、少しだけ口元が綻んでいるようにも見える。ぼくはもう一度頷いた。弟子丸くんは、それ以上はなにも言わなかった。ぼくが弟子丸くんに声を掛けたとき、遠くからヒロが呼ぶ声が聞こえてきた。ぼくは心の中で舌打ちをし、名残惜しい気持ちを抑えて、ヒロが呼ぶ方に向かった。 「あ、あの」  けれど、どうしても言っておきたいことがあって、立ち止まった。弟子丸くんの顔を見ることができない。ぼくは俯いたまま、息をのんだ。 「優勝、おめでとう」 「ああ」 「甲子園での初戦も、がんばってね」 「ああ」  かなりの間を置いて、弟子丸くんが言った。メンバーに入れるかどうかが解らないからなのかもしれない。けれど、県大会であれだけの活躍をしたのなら、監督は赤碕や笠屋の意見よりもその努力を見てくれるだろう。ぼくは弟子丸くんに小さく頭を下げ、ヒロが呼んでいる方へと走った。

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