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第11話

 ぼくたちの高校は、二回戦で逆転負けをした。優勝したのはぼくたちが負けた高校だった。相手が優勝したからこそ言えることかもしれないが、他の高校には5点差以上で勝ち進んだところに1点差で勝てたのは誇りに思ってもいいと思う。それは心の中だけに止めた。  甲子園の応援が終わった後、ぼくたち吹奏楽部の三年生はみんな引退をした。おかげでかなり暇を持て余している。いままではずっと部活で忙しくしていたから、空いた時間の有意義な過ごし方が解らない。ぼくはベッドに横たわっていたが、のそりと起きて、学校に行くことにした。  学校の図書室は夏休み中でも解放されている。ひさびさに本でも読み漁ろうかななんて思いながら制服に着替え、学校に向かう。図書室について扉を開いた時、先約がいるのに気付いた。線の細い、小さな影。弟子丸くんだ。  弟子丸くんはぼくに気付くと、小さく頭を下げた。 「お、おはよう」  声を掛けたが、弟子丸くんは頷くだけだ。なにを話していいか、正直解らなかった。ドキドキする。ぼくは弟子丸くんとは反対側の席に腰をおろし、適当に選んだ本を読み始めた。  どのくらい時間が経っただろうか。ふいに弟子丸くんが声を掛けてきた。 「物理、得意?」 「え? いや、得意じゃ、ないけど」  得意じゃないが、解らないわけでもない。ぼくは弟子丸くんに近付いて、教科書を見た。二年生の時の教科書だ。この分野なら教えられなくもない。ぼくはこうするといいよと問題の解き方を弟子丸くんに教えた。 「‥‥なるほど」  ぽつりと弟子丸くんがぼやくように言った。 「なんで二年生の時の勉強を?」  ぼくが尋ねると、弟子丸くんは素っ気なく言った。「分からないから」 「たしかに、わかるまでは面倒くさいよね」  ぼくもあまり好きじゃないと継ぐ。弟子丸くんは意外そうな顔をしたが、すぐに教科書に視線を戻した。 「受験する」 「受験?」 「医専」  医専とは市内にある医療専門学校のことだ。たしか看護師のほか、理学療法士や作業療法士の資格を得るための学校だったと記憶している。 「看護師?」 「まさか。PT。俺も随分お世話になったから」  言って、弟子丸くんが手首を動かす。聞くならいましかチャンスはない。ぼくはごくりと息を呑んだ。 「あ、あの」  弟子丸くんがぼくを見た。 「どうして、甲子園の観客席にいたの?」  弟子丸くんはふいっと顔を背けた。言いたくないことは誰にでもある。ぼくはまずいことを言ったと思い、慌てた。 「ご、ごめん。言いたくないなら、いい」 「引退したから」  それだけと、弟子丸くんがぶっきらぼうに言った。いや、ぼくの心境上そう聞こえただけだろう。いつもとは変わらない声色だ。 「指を骨折してた」  言って、弟子丸くんが左手を差し出した。 「ここと、ここと、ここ」  小指と薬指、そして小指の下から手首につながる骨だ。 「いつ?」 「決勝戦後」  それは笠屋のせいなんじゃないの? とは、言えなかった。弟子丸くんはまだ痛そうな手首を見つめている。そして大きな目でぼくを見て、継いだ。 「一カ月以上かかるって、先生が。だから監督に言って、引退した。奥原は怒ってたけど、怪我じゃしょうがねえし」  「あいつ過保護だから」と、ぼやくように弟子丸くんが言う。 「おまえ、名前は?」  唐突に弟子丸くんが尋ねてきた。 「えっ? 綾羅木。綾羅木遥」 「遥って呼んでいい?」  ぼくは頷いた。まさか弟子丸くんから名前を呼ばれることになるとは思わなかったからだ。 「俺は啓大でいい」 「呼んでいいの? 本当に?」  弟子丸くんがきょとんとした。ぼくは自分がバカを言った事に気付いて、赤面した。 「ご、ごめん。ちょっと、緊張して」  弟子丸くんは不思議そうな顔で、「ふうん」と言うだけだ。 「緊張、するものなんだ」  それは素朴な疑問なのだと思う。しどろもどろになるぼくを見て、弟子丸くんが薄く笑った。 「大会じゃあんなに迫力のある音でトランペットを吹けるのに、案外小心者なんだな」  ぼくは恥ずかしくなって、俯いた。  それからどのくらい経っただろうか。ぼくが弟子丸くん――基啓大くんとスムースに話せるようになってきた頃、図書室の扉が開く音がした。 「綾ちゃんみーっけ!」  恭賀だ。 恭賀はぼくと啓大くんが一緒にいるのを見て、わおと大袈裟な声を上げた。 「弟子丸くんじゃん! なになに、ふたりとも仲良くなったの!?」  素っ頓狂な声で恭賀が言う。啓大くんは怪訝そうに恭賀を見ている。なんだか困っているんじゃないかと肌で感じて、ぼくは恭賀の肩を押した。 「恭賀うるさい」  恭賀は少し拗ねたように唇を尖らせたものの、物理の教科書を見て、ふうんとなにか意味ありげに笑った。 「ねえ、教えてあげようか?」  啓大くんが顔を上げる。 「言っておくけど、物理なら綾ちゃんより俺のほうが得意だよ。なにせ学年一位をとったこともあるし」  市居だけに、と、恭賀がおもしろくないことを言う。啓大くんはきょとんとしていたが、ぼくと恭賀とを交互に見て、頷いた。 「遥が忙しいときは、おまえに頼む。‥‥えっと」 「恭賀って呼んでね」  いつものようにおどけた口調で恭賀が言う。啓大くんは静かに頷いて、黙々と勉強を始めた。  その帰り道、恭賀が半ば強引にぼくと啓大くんと恭賀の三人で写真を撮ろうと言い出した。最近のスマホにはたくさん便利な機能が付いているからと、恭賀は妙なテンションだった。  ぼくはうちに帰って、恭賀から送られてきたメールを開いた。メールにはぼくたちのスリーショットが添付されている。啓大くんは相変わらず表情が硬い。でも、どこか嬉しそうに見える。その写真を見ていたら自然と口元が綻んだ。ずっと憧れていた。ずっと見てきた。そんな人と一緒に写真が撮れるなんて、考えたことがなかった。嬉しさに高鳴る胸を押さえながら、ベッドに横になった。  好きだなんて、そんな陳腐な言葉では収まりきらない。もっともっと深い言葉がいい。残念ながらぼくにはその言葉をチョイスする術がない。けれど実際にそうなのだ。  もしもぼくにほんの少しの勇気があれば、これから先の関係は少しずつ変わっていくだろう。もしかするとぼくは恭賀よりも啓大くんと一緒にいる機会が増えるかもしれない。期待が膨らむ。その一方で、冷静な自分がいた。そんなはずはない。解っているだろう。責め立てるように、ぼくから希望を奪っていく。でも、実際はそうだ。許されるわけがない。ぼくは親と約束をした。あと数か月後には、ここを離れなければならないのだ。  ぼくはもう一度スマホのディスプレイを見た。いつか、啓大くんが笑っている写真を撮りたい。それはもしかすると、卒業までに適うかもしれない。もっと啓大くんを知りたい。別れが現実味を帯びている――いや、別れは分かりきっていることだというのに、ぼくの頭の中はそれ一色だった。

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