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第12話
12月に入り、期末考査が終わった。ぼくたちが登校するのは、あと数日だ。あと数日で冬休みに入る。ぼくたちは図書室で勉強するのが日課のようになっていた。今朝、啓大くんからメールが入っていた。奥原たちと買い物に行くことになったから、今日は来ない。そんな内容のものだった。
ぼくはすっかりと冬めいたグラウンドに視線をやった。がらりと図書室の扉が開かれる。
「綾ちゃん、ちょっといい?」
やっぱり恭賀だった。ぼくが顔を上げたとき、恭賀の真剣なまなざしがぼくに突き刺さった。
普段にはない顔だ。真剣そのもので、ぼくを見る目の色に変化があることに気付く。
焦れている。吹っ切れたい。そう考えているように感じて、ぼくは恭賀の話を聞くことにした。
「シュレーディンガーの猫って逸話は知っている?」
「いや、知らない、けど」
恭賀はそうだろうねとぼやくように言ったあと、ぼくの向かいの席に腰を下ろした。
ぼくは科学や物理の類があまり得意ではない。恭賀は文系でありながらも、物理が得意だ。単純に文字を読めばわかる。数学なんて公式を覚えて当てはめてしまえばなんてことはないと、数学が苦手なぼくを揶揄する。
父の仕事を継ぐからには、さすがに数字に強くなければいけないと思ったこともあるが、それは税理士に任せておけばいいと父に言われ、ほっとしたのを覚えている。
それよりも、ぼくは自分の中にある気持ちを整理し、払拭しなくてはならない。受験の際にはトランペットを吹かなければならないだろうし、迷いのある音ではきっと試験官にバレてしまう。ぼくは自分の言ったことを後悔している。でも、一方では後悔をしていない。これがなんという現象かと言われると、ぼくにはさっぱりわからないが。
「シュレーディンガーの猫というのは、量子力学における有名なパラドックスだ。量子力学からの解決法と、論理学からの解決法との二通りの解決法がある。
エルヴィン・シュレーディンガーが、ある実験をした。
蓋の付いた箱の中に一匹の猫と、放射性物質を一定量と、ガイガーカウンターを一台、青酸ガス発生装置を一台いれておく。もし箱の中の放射性物質・ラジウムがアルファ粒子を出して、それをガイガーカウンターが感知したら、その先についている青酸ガス発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。でも、もしラジウムからアルファ粒子が出なければ、ガスは発生せず、猫は生き残る。一定時間後に猫が生き残るかどうか」
「生き残る確率は、50%ってこと?」
「そうだけれど、この場合は、生き残る確率は50%、死んでいる確率も50%。猫が生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なり合っていると解釈する。
量子は離散的で、粒子である。その離散的な粒子には、中間的な個数はない。ありえない。量子力学では波動関数によって与えられる値は存在確率であり、0と1の中間的な値、0,5である。では両者はどういう関係にあるか? この関係は重ね合わせという解釈で説明できる。それはふたつの状態が同時に成立するということ、つまり、コペンハーゲン解釈。
ふたつの状態が同時に成立するということは、ミクロの状態とマクロの状態がうまく対応するように結び付けられるはず。これがシュレーディンガーの猫の実験システムを意味する。
ミクロにおいてふたつの状態が同時に成立するのであれば、マクロにおいてもふたつの状態が同時に成立するということになる。そうすればマクロの世界では「生」と「死」という状態が同時に成立するはずだけど、「生」という状態と「死」という状態が同時に成立するなどありえない。一匹の猫が「生きている」かつ「死んでいる」となるのは、矛盾しているということになる」
つらつらと恭賀が説明していく。ところどころ理解不能で聞き取ることができなかったが、恭賀が言っていることは、もしかすると、ぼくがいま抱えている問題かもしれないとふと思う。
「なんか、難しすぎて‥‥」
「シュレーディンガーの猫を要約し、簡単に説明するとね、白黒で決められないものを、白と黒のどちらかで決めようとした時に起こるジレンマのことなんだ。つまり、半分は白で、半分は黒」
「え‥‥っと。ごめん、本当にわからない」
「俺はさっき、猫が死んでいる状態と生きている状態が1:1で重なり合っていると解釈する、と言ったね。
この場合も、白と黒とが重なり合っていると解釈する。ふたつの色を混ぜた場合、灰色になる。だけど、白か黒かで決めなければならない理論上では灰色という答えはありえない。
じゃあ綾ちゃん、質問。実験をした人たちは、猫が死んでいる状態なのか、死んでいる状態なのかを確認するために、どうする必要があったと思う?」
ぼくは最早なにも言えなかった。恭賀の言う意味がまったく解らなかったからだ。
ぼくは自分が後悔していることと、後悔していないことがある部分について、その証明ができるのが恭賀の言う理論だと思った。そうではない。それよりも、もっと複雑で、じつは単純なのかもしれないけれど、情報量が多すぎてまったく頭が付いて行かない。
恭賀が簡単だよと促してくる。ぼくは恭賀が言っていたことを思い出すために、記憶の糸を手繰った。
「え、えっと、たぶん、だけど」
「宿題ね」
ぼくが答えようとするよりも早く、恭賀が猫のように目を細めて言った。
「冬休みが終わったら、教えて。綾ちゃんの気持ちと一緒に」
そう言って、呆気にとられたぼくを置いて、恭賀は颯爽と図書室を後にした。恭賀が廊下を教室とを隔てる扉を開けたとき、冬独特のひんやりとした空気が舞い込んできた。ぼくの答え。それは、きっと、――。ぼくは苦々しい気持ちを変える為に、いままで読んでいた本に集中することにした。
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