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第16話 春樹

初めて一人で下野の家に来た。ここ最近は毎週通っているので道に迷うことは無い。 春樹は、駆け足になりそうな気持ちを抑える。家が見えてくると尚更走り出したくなるのを抑えるのが大変だった。 スムーズに家まで到着したのに、玄関から下野は慌てた顔を見せた。 浮かれて早く到着してしまい、朝が早いという迷惑を考えていなかった!と思い焦ったが、下野は「駅に迎えに行くのにっ!」と斜め上の別回答を言ってきた。 その言葉を聞きホッとした。 部屋に入ると洗濯の途中だろうとわかる。下野と一緒にベランダに出て、手伝うことにした。 そういえば自宅では家事はしたことがない。いい年をして自炊も洗濯も出来ないなんて、下野を前に少し恥ずかしいと春樹は思った。これから自宅では、やるようにしようと心に誓う。 洗濯して濡れた下野の服を干す。下野の下着が目に入って少し慌てた。 ベッドの中で『あの行為』をする時に、下野がこの下着をズリ下げる時が一番ドキドキする。それに、下野の下着は春樹よりサイズが大きい。逞しい肉体はこの下着の下にぴったりと秘めているんだと、想像してしまう。 それに下野の下着をチラチラと見てしまうのは、今日も『あの行為』を期待している自分がいるからだと、春樹は知っている。 「洗濯は好きだ。楽しいよな」 やったこともない洗濯を好きだ言い、自分の気持ちを誤魔化すように言ったが、下野にバレていないだろうか。 夕方、スーパーに二人で買い物に行った時、近くにイタリアンの店が新しくオープンしていたのを知る。 美味しそうな匂いがしたから、二人で入ることにした。店の名前は、バーシャミというがイタリア語で『キスして』という意味らしい。 「ピザ…美味しい。宅配じゃないピザは、物凄く久しぶりに食べた」 「何を食べても美味いな。ランチもやってるみたいだし…今度はランチにも来てみようか。なっ、春ちゃん」 初めて入った店だが当たりだった。久しぶりのイタリアンに大食いを発揮してしまう。あれもこれもと食べる春樹を、下野はビールを片手に笑いながら、目を細めて見ていた。 「ランチ…寛人と約束が出来るのは嬉しい」 「えっ?」 「次の約束が出来るのって嬉しくないか?いつとか、何時とか、そんなの決まってなくても、約束をすると次もあるんだなって嬉しく思う」 プライベートで約束なんてしたことなかった。春樹にとって下野は色んな初めてを連れてきてくれる。それが春樹には、どれも嬉しくてたまらなかった。 「春ちゃん!」と、下野に名前を呼ばれ、テーブルの上で手を握られた。 「ひ、寛人!なっ…ここ、外だから!他の人がいるし!」 二人でいる時ならいいけど、他の人の目が多くある外で手を握られると、恥ずかしさが出てきてしまう。だから、下野にだけ聞こえる小声で「ダメだ!」と訴えてみた。 「だってよ…春ちゃんが嬉しいこと言うから。それにほら、俺、今飲んでるしぃ?飲んだら手を繋いでくれるんだろ?」 春樹は手を握られた恥ずかしさから、固まっているが、下野は堂々としている。右手で春樹の手を握り、左手にはビールを持ち美味しそうにゴクゴクと飲んでいた。 それにニヤニヤと笑っていて、何だか意地が悪い顔をしている。 「そうだけど…ううっ…何か恥ずかしいだろ!そ、そ、それより、あのルールだけどな、記念日はきちんと祝うってやつはどうする?この前、ペアの営業活動が終わっただろ?それを記念日にするか?」 恥ずかしさから、違う話題を!と春樹は必死で考え、下野の大きな手の中からスルリと逃げ出した。 ずっと二人が仲良くなるルールにひとつ、記念日を祝うというのがある。それについて、どうするかと提案をしてみた。 「えーっ、やだよ。仕事のことを記念日にするのは。じゃあ、今日…今日を記念日にしよう!そうしようぜ」 「今日?今日なんて何もないだろ?」 「何でもいいじゃん、記念日なんだから。春ちゃんが、次の約束が出来て嬉しくなった記念日でいいじゃん」 「そんなのダメだ。次の約束が出来て嬉しいっていったら、いつもだぞ?そしたらいつも記念日になっちゃうじゃないか。それじゃ記念日じゃないだろ。よく考えろよ」 適当に記念日を作ろうとしてと、春樹が呆れていると「春ちゃん!」と、またテーブルの上で下野に手を捕まえられた。 「そういうとこだぞ!春ちゃん!じゃあ…さ、外で手を握られて恥ずかしかった記念日にしよう。もうこれで決まり!決定だからな。変更はダメ!」 下野はゲラゲラ笑いながら春樹の手を握っている。今度は力強く、簡単に手を離してくれない。逃げることも難しそうである。 もう…何だか下野のペースに巻き込まれて、可笑しくなり春樹も笑い出してしまった。 「それとな…『抱きしめる』もルールに追加してくれ。抱きしめられるより、抱きしめる方が、俺は何かしっくりくるんだよ」 クククと、まだ笑いながら下野はルール追加の話をしてきた。春樹が疑問に感じていたことだ。 「それ!ずーっとおかしいと思ってた。寛人が寂しくて『抱きしめられたい』っていうから!だから俺は頑張って抱きしめてたんだぞ?それなのに、朝起きると逆転して俺が抱きしめられている。でも…お前は身体が大きいからな、抱きしめる方がしっくりくるのか。じゃあ、そうするか?」 春樹がそう答えると「ありがとうな、春ちゃん」と、下野が優しい声を出した。咄嗟にテーブル越しに下野を見上げると、ジッと春樹を見つめている目とぶつかる。相変わらず手は握られていた。 「お前は…またそんな声を出す。電話でもそうだぞ?そんな声を出されるとちょっと…」 ちょっと…と言い言葉を濁した。 最近はそんな優しい声を聞くと思い出してしまうことがある。ベッドの中の『あの行為』の時と同じ声で名を呼ぶからだ。 「ちょっとってなんだよ…」 下野は何か勘違いしているのか、心配そうな顔をしている。 「いや、ちょっと…寛人はいつも余裕がある感じで、俺とは全然違うから。ズルいなぁって思ったんだよ」 ベッドの中の『あの行為』を思い出したとは言えず、春樹は言葉を濁して伝えた。でもまぁ、余裕があってズルいなぁとはいつも思っているから嘘ではない。 「なんだよ、ズルいって…それに、余裕?そんなのねぇよ、あるわけないじゃん」 ズルいと聞き、下野は意外そうに驚いた顔をしている。 「いや、余裕あるだろ。仕事もそうだけど、恋愛とかでも余裕ありそうだもんな、お前は。俺はそんなの全く経験ないからわからないけど。だからその違いがズルいんだ」 「恋愛かぁ…どうかな、余裕はないけど。俺は好きな子には溺愛するかもな」 はははと、下野は笑い出していた。心配そうな顔から一転して、ホッとしたようにまた笑い出していた。 「デキアイ?どんな漢字だっけ?普段使わない言葉だからパッと思い浮かばないな」 春樹は、溺愛と下野がいう言葉が理解できずにいた。すると、下野は春樹の手を取り、手のひらに『溺愛』と指で漢字を書き、教えてくれた。 下野の指は太くてゴツゴツとしているけど、丁寧に春樹の手のひらに文字を書いていく。 撫でるように指を滑らし『溺愛』と書いていく文字と、下野の指を春樹はドキドキしながら眺めていた。 「溺れる愛?変だな。愛に溺れるなんて」 「心が溺れるほど、その人を愛するってことだぞ、春ちゃん」 ほら、また。そんな優しい声を出す。と、思いながら春樹は握られている下野の手から目が離せなかった。 それに、ドキドキして顔を上げるタイミングがわからない。溺愛なんて聞き慣れない言葉を、手のひらに指を使って文字を書かれたからだろうか。 「人に対してそんな感情になるのか…心が溺れるほどって、すごいな」 ドキドキするのを誤魔化して、春樹はそう言った。 「大人が恋をすると溺愛になるんだぜ」 「へぇ……そうか、お前のそんな姿、見てみたいかもな」 テーブルの上では手を握られたままである。キュッと下野が力を入れて握り直したから、握られている手を見つめながら、春樹もギュッと握り返した。 テーブル越しに下野を見上げると、春樹を見つめていた下野の視線と合った。いつから春樹を見ていたのだろうか。下野はいつものように笑っていた。 「やっぱり今日は記念日だな…よし!じゃあ、腹もいっぱいになったし帰るか。またあの続き見ようぜ」 「ああっ!見たい!そうだ、早く帰ろう」 二人がハマってる海外ドラマの続きだ。下野は立ち上がり会計をしている。 外に出るとすっかり夜が深くなっていた。 「んっ」と、下野が春樹に手を差し出したから、ギュッと握ってやった。夜だし、店ではない外で手を握るのは問題ない。 下野の顔を覗くと笑っている。 ここから下野の家までは近い。 すぐに到着する。 今日は何をしようか。 明日も休みだし、時間はたくさんある。 週末の夜が本当に楽しみになっている。

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