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第18話 春樹

下野が店舗の店長として異動となる話を聞いた。本人から聞いたことだから、間違いないのだろう。 何かがおかしい。 そう考えると、自分が希望する部署に異動となることも、おかしな話に思えてくる。 マーケティング部に行きたいと知っているのは、下野と部長。そして…母と美桜にも伝えたことを春樹は思い出した。 下野との電話を終えて、リビングに急いで向かうとソファには母だけがいた。 「ね、ね、母さん。ちょっと聞いていい?あのさ、この前、俺がマーケティング部に入って挑戦したいって話したよね?覚えてる?」 母に焦って話をすると、ケロッとした感じで言われた。 「あら、春!そのマーケティング部ってところに異動が決まったの?」 「うん、そうなんだよ。それでさ、」 「マーケティング部でも上手く出来ないようであれば、その時はお父様の会社に入るのよ?これが最後のチャンスですからね」 母は異動と聞いても驚かず、優雅に紅茶を口にしている。毎回『お父様の会社』と言うのは相変わらずだが、何となく今は違和感がある。 「もしかしてさ、母さん、この俺の異動のこと知ってたりする?会社のことだから、知らないか…まあ、そうだよね、」 知るわけないよなと、話を終わらせようとした時、母が薄く笑いながら口を開いた。 「知ってるわよ?そうなるかなってね。だって、私が伊藤さんの奥さんに伝えたの」 「…えっ?」 母は悪気はなく答えている。 母が言う『伊藤さん』とは、人事総務部長の伊藤のことだ。その伊藤部長の奥様と母は仲がいいのは知っている。 春樹に悪影響を与えている男がいる。その男は下野と言い、春樹に悪知恵をつけているようだ。だけど、その男に付けられた知恵を春樹は目標とし始めている。それは、マーケティング部で活躍することだと、伝えたそうだ。 「だからね、一度そこの部署に異動してやってみるといいわよ。それで難しかったらすぐにお父様の会社に行くことね」 「なんでっ!なんで勝手な噂を流す!母さんは会社に関係ないだろ。下野はそんな奴じゃない!いい加減、適当なことしないでくれよ。伝えた事を撤回してくれ!」 「春、何をそんなに怒るの?母さんは、異動させろとは言ってないわよ。計らってくれてもいいのにねって言っただけよ」 「それが圧力って言うんだよ!俺はコネ入社でもないのに、そう思われるのは、母さんが勝手にこんな事するからだよ!俺の会社にデマを流すな!」 初めて母に怒鳴ってしまった。自室に戻り荷物をまとめ家を飛び出した。 頭に血が上って飛び出したが、行き先は下野の家しかない。途中で少し冷静になり、メッセージで下野に連絡を入れた。 駅に到着すると改札で下野が待っていた。 「春ちゃん…どうしたんだって」 下野が困った顔をして春樹を見ている。 「どうしよう…寛人、本当にごめん。ごめんなさい。俺は、取り返しがつかないことをしてしまった」 スーツに靴、私服に携帯と、春樹の大きな荷物を下野は持ってくれた。こんなに親切にされると、もっといたたまれない。 下野の家に到着し、春樹は今回のことを話し始めた。コネ入社と勘違いされても仕方がないことも話をしている。 「なるほど〜。春ちゃんのお母さんは凄いな!春ちゃんの気持ちを理解して伝えるのが上手なんだな、春ちゃんの分析が的確で上手いのはDNAなのかっ!」 「なんでそんな呑気なことを言う!寛人はそれに巻き込まれて異動になったんだぞ!全ては俺が原因だ。俺が最悪なんだ」 「俺の異動は別だろ…春ちゃんのお母さんは、春ちゃんのマーケティング部の話しかしてないはず。俺の異動は、気をまわした人事総務の考えなんだよ。うちの会社らしいな、そんなとこあるよな?」 「だけどっ!悪知恵を付けたって勘違いされている。それは美桜と母に話をした時に、美桜が腹いせで言い出したことだ。俺があの時、話をしなければよかった。こんな取り返しがつかないことになるなんて」 成績優秀で将来有望な人の道を、潰してしまうことになったと、春樹は考える。 店舗の店長が将来有望な道から外れたとは言わない。だけど、将来有望な道のりは遠回りになってしまう。 それに今、ノリに乗ってる男が営業部から異動となるのは、どう考えてもおかしい。下野の異動は、会社にとっても不利なはずだ。 こんなことで異動ともなれば、普通に考えてもう一度営業部に戻ることは考えにくい。周りにも大きな影響を与えてしまう。 「春ちゃん、何か食べるか?パンケーキ作ろっか。好きだろ?」 下野はキッチンに向かい作り始めようとする。春樹はその後を追いかけて、下野のシャツを引っ張り振り向かせてまた謝る。謝るしか方法が見つからない。 「もう〜なんだよっ!さっきから取り返しがつかないって言って謝ってばっかりで」 「だってそうだろ?俺が悪かった」 「じゃあ…俺も春ちゃんに取り返しがつかないことしてやるから、それであいこな」 キッチンで下野を見上げて話をしていると、大きな両手で春樹は頬を包まれた。何だろうと思っていると、顔が近づいてきて唇にキスをされた。 チュッと音を立ててキスをした後、唇をぐっと押し付け角度を変えて何度もキスをされた。 頬を包んでいた手は、春樹を抱きしめるように変わっていく。二人の身体が密着し、下野の両手は春樹の背中を抱きしめている。角度を変えたキスも離されない。 「春ちゃん、ほら、鼻で息しないと苦しいだろ?やってみな」 「…はぁ、はぁ…んん…、え…?」 確かに、ずっと息を止めてしまっていた。下野に言われた通り、鼻で息をすると下野の唇を感じることができてキスに夢中になれる気がした。そして、春樹の両手も自然に下野の背中に回し、下野のTシャツを握りしめていた。 チュッチュッとキッチンに何度も音が響いている。チュッと軽くキスをされた次は、下唇を軽く噛まれたり、下野の舌で唇をこじ開けられたりした。 キスは初めてだ。よく分からないから春樹も下野の真似をして、下唇を噛んだり、舌で下野の唇を舐めたりしてみた。 「…ヤバっ。取り返しのつかないことしたけど…」と、キスを解いた下野は独り言をいい春樹をきつく抱きしめた。 「こんな気持ちいいのは、取り返しがつかないことなんかじゃない!違うだろ、もう!寛人はっ!」 下野はわかっていないんだ。 春樹もきつく下野を抱きしめて、ため息をついた。

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