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第21話 下野

営業部長に異動と言われ、モンジュフーズスーパーマーケットの黒目ヒルズ店に勤務となった。あれから、1年ちょっと経っている。 スーパーの店長は初めての仕事だが、案外やる事は沢山あり日々忙しく感じている。 月日はあっという間に、そして確実に流れていた。 異動が公になったあの頃、営業部では、そこそこ噂が立っていた。営業成績ナンバーワンの男が急に異動になれば、そりゃそうだろう。有る事無い事言われるもんだ。 みんな面白おかしく口々に「不倫か」「女関係だな」「人妻に手を出した」などと言って、適当な噂話をしているのは知っていた。人の噂も七十五日というが、今ではすっかりそんな噂も聞かなくなっていると、同じ営業部にいた野村海斗から聞いている。そんなの、どうでもいいことだけど。 「おっ、来たね」 下野はスーパーの店長室にあるモニターに映し出された人を見て独り言をいった。 防犯カメラのモニターには春樹が映っている。店内の新商品の所で立ち止まり、商品チェックをしているのがわかる。 モニターはこんな使い方をするのではないとわかっているが、下野にとっては春樹を確認するために使用しているところがある。 春樹は週末、こうやって下野が勤務しているスーパー黒目ヒルズ店まで来てくれていた。早く会いたいなぁと思いながら防犯カメラを眺めることもある。 春樹との関係は変わらず、金曜日に春樹が下野の家に遊びに来る。土日と泊まり、日曜日の夜に春樹は帰る。 それだけの関係だ。 「春ちゃん!お待たせ」 「…ちゃん付けで呼ぶなよ。ここはお前の職場だろ?周りに聞こえるぞ?」 防犯カメラのモニターで確認した場所に迎えに行くと、春樹は待ってくれていたが、名前を呼ぶと小さな声で抵抗していた。周りの目が気になるようだ。店内で待ち合わせをするのを何故か春樹は恥ずかしがる。 「周り?そんなの気にしねぇよ。それより、春ちゃんが頑張った新商品、すっごい売れてるぞ。このオリーブオイルだろ?」 春樹はマーケティング部で、売り出す新商品を手がけることが多かった。社内の売れ筋となっているオリーブオイルも、春樹が手がけた商品だった。 「何言ってんだ。これはお前が裏から手を回した商品だろ?寛人のネットワークで売値も決定したって知ってんだからな」 「まあまあ、売れたからいいじゃん。こっちのドレッシングも売れてるぞ。これも春ちゃんだろ?これは新作だもんな」 下野のところには、いまだに各部から連絡があり、多少アドバイスをすることがあった。それは営業部にいた頃に、何となくやっていた仕事の延長だ。 店内で商品を見ながら、そんなことをダラダラと話をする。下野は周りの従業員に声をかけながら、春樹と二人で外に出た。 「春ちゃん、今日はバーシャミで飯食べて帰ろうぜ。家にはうどんとかあるから、明日のご飯はたくさん作れるよ」 「オッケー!バーシャミか!イタリアンだな。あそこは何を食べても美味しいよな」 スーパー近くにあるイタリアンバルに二人で向かう。ピザもパスタも食べようなと、春樹は嬉しそうに話している。サラッとした春樹の髪が嬉しそうに跳ねているのを、下野は見ていた。 「おっ!今日は待ち合わせじゃなくて、二人一緒ですね。どーぞ!」 バーシャミのマスターに迎えられて、テーブルに通してもらった。最近、金曜日は春樹とこの店で待ち合わせすることも多かったから、マスターは二人のことをよく知っていた。 下野はビール、春樹はドリンクと、特に注文しなくても出てくるほどだ。 「それより、寛人!何で断った?俺は知ってるぞ!営業部に戻れるのに断っただろ」 店についてすぐ、春樹に叱られた。何故だ何故だと問い詰められる。 春樹の耳に入っているとは驚くが、春樹の言う通り、下野が営業部に戻るという話が出ていた。 「うーん…今は、ここのスーパー勤務のままで、いいかなって」 「ダメだ!お前は営業部に必要なんだ。俺は何度も働きかけしている。しつこい!ってこの前は営業部長にも言われたけど、やめない。諦めないぞ!なぁ…考え直せよ。一緒に頑張ろうって約束したじゃないか」 異動の話があった時、下野は一度断っている。その後、営業部長からは何度もオファーをもらい、先週は黒目ヒルズ店にまで来てくれて、営業部に戻ってくるようにと直接交渉もされた。 だけど、下野は『はい、戻ります』とは言わず、このままにして欲しいと、逆にお願いをしていた。 「蓉の件もあったし…まぁ、な」 蓉の件とは、芦野蓉の異動のことだった。春樹といつも食べ放題に行っていた経理部の芦野蓉も、会社の理不尽な都合で異動を言い渡され、一時期下野と同じ黒目ヒルズ店で勤務していた。 異動の理由は、下野の時と同じような理由である。会社の中にいるコネ入社の人たちの機嫌を損ねることをすると、何故か会社から圧力がかかり、異動と言い渡されてしまうらしい。何ともおかしな話だ。 その蓉の異動には、後輩である野村海斗が食いついていた。「先輩の理不尽な異動は許せん!」と言い、あの手この手で蓉を守り、最終的には蓉を元所属していた経理部に戻すことが出来ていた。 「だけど蓉の件は決着ついただろ?蓉は経理部に戻れたし、今は頑張ってるぞ。海斗は…まぁ、まだ相変わらず、社内で殺気立ってるところもあるけど」 「あははは、海斗!そうか!まだ殺気立ってるのか。あいつ、今回の蓉のことがキッカケで腹が据わったか?海斗がなぁ、いつか会社の後継者になるといいなと思ってるんだ。あいつの性格が経営者向きだと思うし…まぁ、まだまだ先の話だけど、頑張って欲しいよ、あいつには」 二人の話題は野村海斗の話に移る。海斗は会社社長の息子である。御曹司だ。 「海斗が後継者か?どうかな…案外あれで控えめなところがあるぞ。でも、陸翔みたいだと困るけどな」 海斗にはひとつ年上の兄、陸翔がいる。 陸翔も同じ会社で、海斗と同じ営業部に所属していた。だから陸翔も御曹司である。 しかし兄の陸翔は海斗と違い、空気が読めなく仕事も中途半端で困った奴だった。 「陸翔は違うだろ。同じ御曹司でも、あいつはそんな器じゃないし…海斗は相当腹黒いところあるんだぜ。それをもっと出してもいいのに、いつもはニコニコしてて腹の奥のことは何も言わないんだよなぁ」 「あははは、海斗の腹黒さはわかる!俺とも仕事でしょっちゅうやり合ってるんだ。だけど、あいつは骨があるから、それは認めてるんだ」 「仕事でやり合ってるとか言ってるけど、春ちゃんは、海斗のこと助けてるんだろ?知ってるぞ」 営業部とマーケティング部なので、表立っては、しょっちゅうやり合っているようだが、春樹は海斗の仕事を認めているようで、陰ながら助けていることは聞いていた。 「ああ…う…ん、まあ。それは、寛人からお願いされたから。海斗の仕事をちょっとサポートするところはあるかもな」 「春ちゃん、仕事頑張ってるな。やっぱりマーケティング部は合ってるだろ?よかったな、楽しそうで俺も嬉しいよ」 「俺は寛人が本社に戻らないと楽しくない。俺が今の部署では頑張っているのは、お前が戻ってきた時に、恥ずかしくない自分でいるためだ。だからさっきの話だけど、何で断った!早く寛人は営業部に戻ってきてくれ!」 話はまた下野の異動のことに戻る。春樹は何度も下野にそう訴えていた。 バーシャミで食べて飲んで満足し、二人で下野の家に帰る。 「んっ」と、飲んでいる下野が手を出すと、笑いながらも、その手を春樹は握ってくれる。相変わらず二人のルールは継続している。 部屋に到着すると、二人それぞれが着替えたり、交互に風呂に入ったりする。何となく二人のルーティンが決まっているので、その辺は自然に出来ている。 この部屋には春樹の私物が増えていた。服や歯ブラシ、泊まるたびに少しずつ物が増えていく。それらを見ると嬉しさが込み上がる。春樹が下野に心を開いていると感じるからだ。 今日はベッドの上で、春樹を膝の上に座らせた。ギュッと抱きしめると春樹の身体はしなる。壊れないようにと、注意しながらいつも抱きしめている。 好きだとは伝えていない。 春樹からも何も言われていない。 言い出せない弱さがある。 言い出さないでいれば、この関係が壊れないとも思っている。 だけど会えばキスをする。 抱き合うし、ベッドにも一緒に入る。 抑えきれない想いがある。 こんな関係はいつまで続くのだろうか。 恋人でもなく、友人でもなく、名前がない関係だ。それを考え始めると寝れなくなる。 もしかしたらずっと、二人が仲良くなれるルールに縛られているのかもしれない。 今も二人の間であのルールは健在だ。あれがあったから仲良くなれた。だけど、あれがあるから先に進むことも出来ず、後戻りも出来ないのかもしれない。 「春ちゃん、キス上手になったな」 「お前はずっと上手なんだろ?ムカつくけど…」 今日もキスが出来た。 セックスはしていない。 こんな関係は胸がキリキリと痛む。 中途半端な状態は心地いい時もあれば、苦しくて窒息しそうな時もある。

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