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第22話 春樹

「春ちゃん、キス上手になったな」 「お前はずっと上手なんだろ?ムカつくけど…」 今日もキスが出来た。 ムカつく…とは口に出して言うが、心の底ではキスが出来てホッとしている。 だけど、嫉妬もしている。 下野のキスはこんな感じなのかと考えると、勝手に胸がギュッと締め付けられる。 それは、慣れている下野の過去に嫉妬しているからだ。下野とのキスは気持ちがいい。抱きしめてもらうのも、ベッドの中で裸で抱き合うのも好きだ。 他の誰かにも同じことをしていたらと考えると、気が狂いそうになる。これを嫉妬と呼ぶとは知っている。 「寛人?…」 この流れだと、まとわりつく服を脱ぎ捨てて、二人で抱き合うことになりそうだ。だから名前を呼んだ。最近は、名を呼ぶのが二人の合図になっている。 「春ちゃん、今日はちょっとこのままでいさせて?」 このままでいたいと言う下野に、きつく抱きしめられる。何でもないのに涙が出そうになった。何故か今日はいつもと違う。 二人の間に、セックスはない。 近いことまではしているが、セックスはしていない。 セックスを体験したことはないが、男同士はどうするか知っている。下野に抱かれたい気持ちはある。 「寛人…最近忙しいか?蓉のこともあったし、それにこの前の休みは急用があったんだろ?無理してないか?大丈夫か?」 ここ最近、下野に急用が頻繁に入るようになった。メッセージは毎日送り合うが、毎日していた電話は週に一回か二回になり、休みの日も会えない日があったりした。 蓉のことで下野が裏で動き、忙しいんだなと思っていたけど、ちょっと違うような気もしている。 「ごめん。ちょっとな…」 ごろんと下野に倒され、二人でベッドに横になる。下野は春樹のおでこにチュッと音を立ててキスをした。 「あのな、春ちゃん…聞いて欲しいことがある」 「何…?何だよ、改まって」 キツく抱きしめられたまま、下野は春樹の耳元で囁く。嫌な予感が胸に広がり、胸がドキドキとし始めた。 「俺さ、会社を辞めようと思う」 「えっ!」 びっくりして身体を起き上げようとしたら「動かないでこのまま聞いてくれ」と言われる。 「ここのところ、連絡出来ない日があったりしたろ?俺の実家のことなんだけどさ」と、下野は話し始めた。 下野の実家は、京都で料亭を経営しているが、最近その経営が悪化しているという。 世界的なパンデミックから客足は減少し、料亭を取り巻く環境は厳しさを増していた。経営を工夫し、新たな顧客をつかむ努力をしなくてはならないと。 「だから…俺が関西に戻り新しい事業を立ち上げようと思ってる。それでな、」 「なんで!何で今まで言わなかった!そんな大事なこと…それに、寛人が会社を辞めてやらなくちゃならないことなのか?他に解決策はないのか?ひとりで関西に行くってことか?」 「ごめん、春ちゃん。聞いてくれ、あのな、俺も今後やりたい事というか…そんなのをずっと考えていたんだ。もちろん、今の会社でも楽しいよ。だけど、俺が考えていること…その、やりたいことを、それをやってみたら実家を救えるかもしれないんだ。だから、色々考えたんだけど、会社を辞めて、関西に行って事業を立ち上げる決心をした」 下野は大きい。自分より遥かに大きなことを常に考えている。 春樹は自分が情けなくなった。下野と離れてしまうとわかり、その事しか考えられなくなる自分は幼い。 「そんな急に…どうしたら、」 「それでな、俺が言いたいのは…春ちゃんも俺と一緒に関西に来て欲しいってことだ。俺と一緒に新しく仕事をしないか?」 「えっ?俺?」 いつの間にか抱きしめられている手が緩み、真剣に見つめられながら話をしていた。 「新しい土地に行って一からスタートになるけど。一緒に行ってくれないか?」 「俺は…寛人…。俺が行っても何もならないだろ。新しい事業は何をするのか知らない。だけど、俺はお前のお荷物になるだけだ。それはわかる。俺は、営業も上手く出来ない、マーケティングもまだまだ出来ない。そんな奴が一緒にいても、寛人のプラスにはならない」 「プラスかどうかは俺が決める!近くにいて欲しいんだ。春ちゃんとの生活は変えたくない。だから一緒に仕事をして欲しい。それじゃダメか?」 一際大きな声で言われる。下野の真剣な気持ちは伝わってくるが、春樹はどうしても頷くことは出来なかった。 今の仕事を辞めて、下野の仕事を支えることなんて、自分には出来ない。自分は何の強みもないと思っている。 「俺には何もない。そうだろ?俺を雇うメリットなんて何もないはずだ。生活を変えたくないから、新しい仕事を一緒にしようなんて、おかしい!俺は寛人を支える仕事なんて出来ない。それに、プライベートは仕事が整ってからだろ?俺との生活なんて、そんなのどうでもいいことだろ?」 本音は一緒にいたい。離れたくない。だけど、下野を困らせたくない。足を引っ張りたくない。自分には何もできないと、繰り返し考える。 「おかしくない!俺は春ちゃんと一緒に新しく仕事をしたい。それに、俺は仕事と同じくらいプライベートも大切だ。生活だろ?春ちゃんと俺のプライベートだろ?じゃあ、俺は寝る時はどうしたらいい?誰が抱きしめてくれる?飲んだら手を繋くのはどうなる?」 下野は春樹を困らせることを言う。 プライベートは宙ぶらりんだ。好きだと伝えてもいない。もちろん言われてもいない。二人の関係には名前がない。 それでも今までは寝る時に抱きしめ、抱きしめられていた。それなのに、これからは誰が抱きしめてくれるんだ?と、下野は答えられないことを聞く。 「そんなの誰にでも出来ることだ…頼めば誰でも抱きしめてくれるだろ?新しいプライベートを作ればいい。代わりなんていくらでもいるだろ?仕事だって俺より出来る奴はたくさんいる。俺じゃなくてもいいはずだ。今のお前は我儘を言っている」 心に無いことを言ってしまい、ズキズキと胸が痛む。下野の横に誰かが寄り添うなんて、考えただけでも嫌すぎて目眩がする。 「…ごめん。ごめんな、春ちゃん。わかってるよ。我儘言ってるって…春ちゃんはマーケティング部で誇りを持って仕事をしてるもんな。困らせること言ってごめんな」 春樹は何も答えられなかった。 明日の朝にはいつものように『おはよう』と言えるのだろうか。

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