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第29話 下野

関西で始めた事業は好調。従業員の数も増え、会社もかなりのスピードで大きくなってきている。 海斗が企画していた高級スーパーと下野の会社のデリカテッセンのコラボは上手くいった。おかげで、東京でのデリカテッセンの立ち位置が出来上がる。爆発的な人気に後押しされる形となった。 なので、完全に東京を拠点にすることにした。引っ越しは先週末に完了し、会社も東京に移している。本社を東京に置き、関西は支社という位置付けとした。 今日は海斗と打ち合わせがある。場所は、下野が昔勤務していた会社。勝手知ったる昔の古巣だ。 久しぶりだが変わっていない。春樹とよく使用した社内のコミュニティスペースも健在だ。狭い場所で春樹と顔を近づけ話をしたことを思い出し、無意識に春樹の姿を探したりしていた。 今日の打ち合わせ内容は、海斗の会社であるスーパー側の新商品を使ったデリカテッセンの展開だ。海斗側としては、第一弾が好評だったので、次の戦略を考えたいといったところだろう。こちらとしても非常にありがたい話である。 通された会議室も昔のまま。そこに集まっていた人たちは、以前の上司だったり、同僚だったりするので気心は知れている。 懐かしくて、打ち合わせ前に砕けた会話を皆で挟んだ。 そこに春樹が遅れて入ってきた。 海斗からは、春樹が打ち合わせに参加すると聞いていなかったので驚いた。 内心驚いたが顔には出さず「お久しぶりです」と、名刺交換がてら挨拶はしたが、春樹の方は「よろしくお願いします」とだけしか答えてくれなかった。 以前の同僚たちとは違い、春樹は、よそよそしい。周りの人たちは元々、春樹と下野にはそんなに接点がないと思っている。だから、よそよそしくても不自然には感じていないのだろう。 だけど、二人の間には色んなことがあった。それを知っている下野の気持ちは穏やかではない。 春樹は今、マーケティング部のリーダーだという。春樹の名刺を凝視して、そんなことを考えてしまった。 その春樹から、今後の商品展開に対する提案と依頼があった。 「営業部からの報告もあるように、デリの展開は非常に好調です。次は、弊社オリジナル商品であるドレッシングを使ったサラダやマリネなどの展開をお願いしたい。売れ筋のオリーブオイルなど、うちの商品を使った惣菜の展開を希望します」 だけど、春樹の声を聞き感動する。 会いたかった人に会えた。 声を聞くことができた。 その人が、真っ直ぐ自分を見てくれていて、目の前に存在する。 さっきここに来た時、会社の中で春樹の姿を探していた。ひと目でも会えればいいと思っていた。 だけど、出会いの衝撃というか、予期せぬ出会いというか、こんな形で再会すると動揺してしまう。 「わかりました。すぐに準備しましょう。 デリの惣菜に、御社のオリジナル商品を使っていると全面に出せば、そちらの売り上げにも繋がりますからね」 と、春樹の顔を見て伝えたが、正直その後は何を喋ったかよくわからないくらいだった。気がついたら和やかに打ち合わせが終了していた。 打ち合わせ中は、ずっと春樹だけを見ていたと思う。 久しぶりに会った春樹は変わっていた。外見は相変わらず変わってはいないが、とりまとう雰囲気や、打ち合わせ中の会話、口調などが大きく変わっていた。 成長したといったら、おこがましいけど、以前の春樹とは違い、凛とした態度で仕事に向き合っている。怯むことなく、緊張感があり仕事に向き合っているなと感じたほどであった。 恐らく、仕事に対しての心配や不安は無く、自分のやりたいように進められているのだろう。 いつ、このような姿になったのか。 誰かが春樹をここまで変えたのだろうか。 春樹の身近に誰かいるのだろうか。 自分が知らない間に、誰かの手によって春樹は変えられたのだろうかと、下野にそんな考えが次々に湧いてくる。 確かに春樹とは、何年も会ってはいない。 だから自分が知らないうちに、誰かの手によって春樹は魅力的に変えられたのかも知れない。その可能性は充分考えられる。 俺の知らない間に何があったのだろうかと、下野は考え込んだ。 嫉妬してしまう。 考えるだけで、知らない誰かに嫉妬してしまい、発散しきれないほどの怒りを内に溜めてしまいそうになる… 「下野さん、おかわりする?そんな難しい顔して。なに、仕事大変なの?」 店のマスターに声をかけられ、ハッとした。 「いや〜。仕事は順調なんだけど…他の悩みが出てきちゃっててさ」 以前、春樹と二人でよく通っていたイタリアンバル『バーシャミ』に来ていた。 さっきまでは、海斗と蓉もここに一緒にいた。飲んで食べて二人と別れた後、下野ひとりここに戻ってきて、カウンターで飲んでいる。 東京に戻って来てからは、何度もこの店に来ていた。相変わらずこの店は何を食べても美味しく、それに以前より活気がある。 新しく入ったアルバイトの子とマスターの二人で忙しくしていた。だから最近は、客が帰った閉店間際に来て、下野はカウンターでひとり飲むことが多かった。 「なになに?他の悩みって…恋愛関係?そうだろ!下野さんは案外奥手だもんな」 「俺?そう?奥手かなぁ。奥手っていうより、一途じゃないか?」 「あ〜っ!だねぇ、一途だね。そろそろ連絡してみればいいのに。君に会いたい!会ってくれないか!アモーレ!ってさ。男は仕事だけじゃなくて、愛にも突進した方がいいよ」 そう明るく答えてくれるバーシャミのマスターには、下野の気持ちを知られていると思う。以前は、しょっちゅう春樹を連れてここに来ていたし、飲むと春樹と手を繋いで帰っていたからだ。 「はい、下野さん。ウイスキーのおかわりです」 「おお、リロン。ありがとう」 店のアルバイトの子がウイスキーのおかわりを持ってきてくれた。こっちに戻って来た時から知り合いとなったアルバイトの青年リロンだ。 最近ここで働き始めたというリロンは、不思議な青年だった。 「なぁ、リロン、教えてくれよ。知り合いに久しぶりに会ったんだけど、やけによそよそしい感じだったんだよ。なんでだと思う?」 アルバイトのリロンは、人の気持ちを察する力が優れている。下野はそう感じていた。 「うーん…何でしょうね。色んなケースがあるんだろうけど。例えば、誤魔化してるとか隠していることがあるとか、後ろめたい思いとか…だけど、恥ずかしい時や怒ってるもあるし。一概には、これって言えないですよね」 「だよなぁ…怒らせたのかなぁ」 やっぱり春樹はまだ怒っているのかもしれない。突然下野が退職したことにより、全ての仕事を途中で放り投げたと怒っている。真っ直ぐな春樹が怒る理由はそこだろうと思う。 「でもさ、それって全部、相手のことを考えた行動ってことですよ。だから下野さんはその人に意識されてるってことです」 「意識ねぇ…だとしたら、俺には充分チャンスがあるってこと?」 「あるかと思います。意識してるから相手はそうなるんですよ。いい意味でも、悪い意味でも意識してるからの行動だと思います。それにもし、その人を怒らせたとしたならば、下野さんの誠実さが伝われば上手くいきそうですけどね」 ほら、やっぱり不思議な子だと下野は感じた。今の下野の気持ちを読んで、リロンはそう答えてくれていると思う。 「でた!またお前の視覚で感じろってやつ!そんなの当てにならないだろ?そんな心で会話みたいなことより、パッションよ。情熱。俺は、目を見て想いを熱く伝える方が、相手に伝わるはずだと思うぜ?」 「もう!そんな当たって砕けろ的な感じは、下野さんには似合わないって。それにさ、ジロウさんのはノリでしょ?下野さんにはそんなノリじゃなくてもっと誠実さがあるんですぅ!それが素敵なんですぅ」 店のマスターであるジロウと、アルバイトのリロンの掛け合いが始まる。 最近、この二人の話を聞いているのが一番の楽しみにもなっていた。 「あははは、リロンありがとうな。充分チャンスはあるって教えてくれたから、前向きにやってみるよ」 連絡してみようかという気持ちになった。毎月の連絡ではなく、あの頃のように。 怖い気持ちはある。拒絶されてしまったらと思うと、立ち直れないかもしれない。 だけど、春樹と再会するために東京に戻ったんだ。行動しなくてどうする。 飲んでいたからなのか、そんな強気な気持ちになる。 ウイスキーの代金を支払い、帰り支度をした。 「ジロウさんありがとう。また来るよ。それとさ、あれ…考えておいてくれよ?」 「あ〜…うん。ですね」 ジロウに挨拶をして店を出た。

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