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第30話 春樹

「美桜!オムツ持った?準備いい?」 玄関にはカラフルなバックが二つ並んでいる。マザーズバックと呼ばれるものだ。子供連れで出かける時は、このバックに必要な物を詰め込むらしい。これを、美桜と春樹でひとつずつ持つことになっている。 今日は、美桜の双子の子供を連れてランチに行く計画を立てた。実家から少し歩いたところに大きな商業施設が出来たから、そこまで歩いて行きランチをする予定だ。 そこはホテルや美術館、イベントエリアもあり、最近はオシャレなデートスポットとして人気になっている場所だ。 実家から歩ける距離であるため、子供達を連れてランチをしたいと美桜からの提案だった。 子供達は双子だからベビーカーも大きいし、荷物も二人分なので多い。春樹が完全フォローをする形となった。 「ベビ達連れて初の外食!緊張するぅ!だけど、春も一緒だから安心だわ」 「俺も緊張する!だけどチビ達と一緒に外出できるのは嬉しい。美桜、大丈夫?ここから結構歩くけど平気?」 「だーいじょうぶよ!スニーカーだし!それに天気もいいし最高だね」 実家を出て美桜と話をしながら歩いて向かう。本当にいい天気でよかった。 最近は、こんな感じで美桜の子供達と過ごすことが多い。特に休日はいつもだ。 美桜から『ヘルプ!』と言われると、仕事帰りでもすっ飛んで行くことも多かった。 子供達に会えるのは春樹も嬉しいから、美桜からの連絡を、心待ちにしているところがある。美桜の子供達はかわいい。身内の子供は、こんなにかわいいと思うのかと、自分自身に驚くほどだ。 「美桜さ、結婚してかなり変わったよね。服装もさ、スニーカーなんて履かなかっただろ?それに、性格も…わがままとか傲慢が無くなった。やっぱり子供が出来ると違う?」 「えーっ!春、私のことわがままだって思ってたの?ひどい!って…まぁね、子供もだけど、やっぱり旦那さんの存在が大きいかなぁ。ねぇ!聞く?聞きたい?私がどんだけあの人のことが好きかってこと」 美桜から聞かされた話は、ほとんど惚気だった。夫に愛されて、子供達は可愛くて、毎日本当に幸せだと言っていた。 美桜の惚気が止まらなく、ゆっくり歩きながらだけど、あっという間にレストランまで到着していた。 「すごい…美桜、良かったね。毎日の生活も楽しそうで羨ましい。チビ達も可愛いしさ、充実してるんだね」 テラス席を案内された。ベビーカーの中で双子も楽しそうにしていた。久しぶりに外でランチが出来るので、美桜も嬉しそうだった。 「あら〜、春だって充実してるでしょ?仕事は忙しいって聞いたよ?あいつ…えーっと名前なんだっけ?海斗の兄の…あいつが春の部署に異動してきたんでしょ?」 美桜は結婚と同時に会社を辞めた。元々コネ入社だったし、仕事もそんなに真剣にしてなかったしと、本人は言っている。 だけど、会社を辞めてからも美桜は同期の女子達と連絡を取り合っているようで、会社の噂話はよく知っているようだった。 女子達のネットワークは広く、噂の内容もほぼ間違ってないから凄いなぁと、春樹は感心する。 「へぇ、そんなこと知ってんの?美桜は会社を辞めてもネットワークは広いな。それって陸翔の話だろ?もうさ、あいつがマーケティング部に異動してきて、今めちゃくちゃ忙しくなった」 海斗の兄である野村陸翔がマーケティング部に異動してきた。かなりの問題児なので周りは煙たがっている。 「そうだ、陸翔だ。春がさ、その陸翔のことを叱ってるって聞いたよ?大丈夫?あんまりやると、またコネ入社の奴が偉そうに!って、春が言われて困るんじゃない?それに、陸翔は一応、御曹司だし。後々面倒じゃないの?」 コネ入社の奴がマーケティング部に異動してきたと、周りは春樹のことを影でそう噂をしていたのは知っている。 それは下野と春樹が異動になった後に出た社内の噂だ。この噂もほとんど当たっている。 異動は会社の判断だとはいえ、春樹がマーケティング部に異動したいと言ったことがきっかけでもあるだろう。 結局、下野も巻き込まれる形となり異動となったが、社内の噂話は広がり、下野が退職してもなお続いていた。 春樹が下野を退職まで追い込んだとも噂されており、一時期春樹に対する風当たりは強かった。 美桜は相変わらず口が達者で強気なところはあるが、その頃を知っているため、今でも春樹のことを心配しているようだ。 「あははは、もうさ、コネ入社じゃないって必死に誤解を解くより、コネ入社だからなんだ?って開き直る態度の方が上手くいくんだ。それに陸翔には誰もが手を焼いてるから、俺が言えば丸く収まるよ。どこかに飛ばされる心配もないだろ?コネ入社だから。まぁ、飛ばされてもいいけどさ、何にも問題はないよ、俺は」 美桜はコネ入社であるが、春樹は試験を受けて入社している。だから以前は、変な噂が聞こえると、俺はコネ入社じゃない!と必死になって伝えていたが、今はもう、その噂を逆手に取っている。 自分の役割がわかった。 皆が陸翔を指導する時、御曹司に無礼があると『飛ばされる!』と心配しながらビクビクと仕事をするのなら、春樹が率先して指導してやろうと思っている。 御曹司を厳しく指導するのは、他部署に簡単に飛ばされない『コネ入社』と噂される自分の役割だろうと、割り切ったからだ。 そうすることで少しずつ仕事が上手くいくようになった。最近は春樹の『コネ入社』がネタのようにもなり『また〜春さん、もういいからっ!』と、周りは笑ってくれることもある。 春樹は、後輩や他部署から相談されることも増えてきていて、周りとは良好な関係を築いている。 陸翔を厳しく指導している姿を、周りがフォローしてくれることも多くなっており『俺らがやるから、春さんは新商品の打ち合わせお願いしますよ』と、頼もしい言葉も貰ったりしていた。 「強いね…春。あの時、ごめんね。私がさ、結構ひどいことをママにも吹き込んだんだよね…だから、会社も慌てて春と下野さんを異動させたんだと思う。春はコネ入社なんかじゃないのに、誤解させたのは私のせいだと思ってるんだ。それに、下野さんの退職が、春のひとり暮らしのきっかけでもあるんでしょ?」 「あははは、美桜らしくない!大丈夫だって。別に美桜のせいじゃないよ。今は噂も収まってるし、仕事も忙しいから楽しいよ?それにひとり暮らしは本当に学ぶことが多い。母さんはすごいよね、洗濯に掃除に料理してさ…だから俺も人並みにひとりで生活出来るようにって、始めたんだよ」 双子のひとりがグズってきた。美桜が食べるのを中断して、ベビーカーから抱き上げてあやしている。 春樹は自分のプレートを平らげて、交代するよと美桜に声をかけた。グズって泣いている子を抱き上げてた時、美桜の肩越しに見覚えがある姿を確認して、ビクッとした。 下野だ。 下野がいる。 隣には髪の長い女性も一緒だ。 女性が、下野の腕に手をかけているのが見える。 「み、美桜、ゆっくり食べてて!俺は、あっちであやしてくるから」 グズっていた子が「ふ、ふ…ふぇ〜ん」と声を上げて泣き出した。春樹は立ち上がり、マザーズバックを持ちテラスの後ろにある芝生に移動した。 一瞬だったが、下野だと確信できた。 最近、仕事で会っていたから間違いない。 女性とデートしていたという現実を見てしまい愕然とする。その女性を数秒間だが春樹は凝視してしまった。 春樹は「あ〜、よしよし。泣かないよ〜」と、言いながら抱っこしている子をギュッと抱きしめたが、動揺が強く春樹は身体が震えていた。 咄嗟に隠れるようにして、逃げ出してしまった。ほんの一瞬だから、下野は気がつかなかったと思う。 だけど春樹の胸の中は複雑だ。 ザラザラとした砂が胸の中に溢れてくるような、そんな嫌な気持ちが膨らんでいた。

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