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第31話 下野
東京では大きな仕事を計画している。
関西からスタートしたデリカテッセンが爆発的に人気になっている今、銀座のビル一棟を下野の会社がプロデュースをすることになった。
1階はデリカテッセンの店、2階から上には、1階のデリに置く惣菜を提供する高級レストランを各フロアに入れた、食のエンターテイメントを目指す施設を作る予定だ。今のチャンスを無駄にせず、追い風に乗りたい。
TVや雑誌など、メディアへの戦略を行い、下野自身も新しい事業に向けて精力的に動いていた。
今日は土曜日で会社は休みだが、数本のインタビューを受けるため、最近出来た商業施設のイベントエリアに出向いていた。
ランチをしながらのインタビューを終了させたが、東京に戻って来てからは忙し過ぎて、自分で仕切ることが難しくなってきていた。スケジュール管理をする人、秘書が必要になってきたかもしれない。
「社長、次はイベントエリアに移動して雑誌のインタビューですよ」
隣から声がかかった。その声の主は、関西で入社し、営業戦略として活躍してくれている井上という女性だった。自ら東京の本社に異動希望を出したようで、今は東京の本社勤務である。
「ああ、うん。大丈夫だよ、予定は把握してるからさ。井上さんは今日OFFだろ?この後は、俺ひとりで大丈夫だからさ…」
なんか、面倒なんだよな…
今日のインタビューでは、待ち合わせ場所に井上がいて驚いた。誰かに言われて来たのだろうか。余計なことをしてくれる。
と、いうのも、井上は秘書気取りなところがあった。頼んでもいないが、場を仕切り始める。その度に下野がハッとして相手のインタビューアーに気を使ったりしていた。
さっきからやんわりと、早く帰っていいよとか、今日はこれで終わりにしていいよとか言ってるが、本人には伝わらないようだった。
「いいえ!社長。ひとりでこの件数をこなすのは難しいです。私は時間配分を考えてますので、任せてください!ほら、時間ですから行きますよ」
井上はテーブルから立ち上がり「ほら!もう、頑張って」などと言い、笑いながら戯れつき下野の腕を引っ張り上げている。側から見れば仲睦まじい感じに見えるだろうが、下野は内心めんどくさいなと思っていた。
ボディコンシャスな服装で、高めのヒールを履き、長い髪をなびかせて、下野の前を歩く井上を見ていた。
イベントエリアに移動する途中、井上が転びそうになりバランスを崩したので、後ろから駆け寄り支えた。
ヒールが致命的なんだろうと下野は思ったが、井上は「すいません…ありがとうございます」と言い、潤んだ目で見つめられ、下野の腕を掴んで離さないでいた。
これは…アピールしている。
長年の経験で下野には、はっきりとわかる。これは、女性特有のアピールだ。以前は、このタイプの女性が周りに何人かいた。その中から何となく付き合いが始まることもあった。
下野は早急に秘書を雇おうと決心をした。
うんざりしながらイベントエリアに向かい、もうひとつのインタビューを行う。
インタビュー終了時、ゆったりとした芝生が広がるカフェで、見覚えがある姿を見つけた。
春樹だ。
春樹がいる。
赤ちゃんを抱き寄せ、あやしていた。
近くにはベビーカーもあり、奥さんらしい女性も一緒だった。
嘘だろ…と、下野は声を出していた。
春樹に子供がいる。結婚しているのか、女性とも一緒だ。子供をあやす姿は慣れているように見え、春樹の横顔も笑っているのが確認できた。それは、休日の幸せな家族のように見えた。
ジッと見つめてしまったが、春樹は下野がそばにいることにも、気が付かないようだった。
この前、会社で会った時、やけによそよそしかったのはこれか?
バーシャミのアルバイト青年のリロンが、よそよそしくする人は、誤魔化してるとか、隠していることがあるのかもと、言っていたのを思い出す。
このことなのだろうか。
下野に隠しておきたいことなのだろうか。
それより、本当に現実を見ているのか。
「社長?どうしました?今日はこれで終了です。この後、どうします?」
井上に腕を掴まれ、話しかけられるまで、ボケっと突っ立っていた。
「えっ?あっ、そうだね。ああ、タクシーどこ?送るよ」
誰かが春樹を変えたのだろうかと、以前仕事で春樹に会った時に考えていた。
春樹の身近に誰かいるのだろうかと、それほど春樹に変化があると感じた。
結婚により春樹は変わったのか。
家庭を持つことで、仕事でも堂々とし、頼り甲斐が出て来たのだろうか。
嫉妬と同時に無力さを感じた。
自分ではどうしようもない。どうすることもできない無力を感じる。
だけど頭の中は春樹のことをだけが、ぐるぐると考えを巡らせている。
タクシーで井上を送る間中ずっと考えていた。「どこかでお茶します?」という井上からの提案も断り、真っ直ぐ送り届けた後、ひとりで家に帰って来た。
立ち直れないかもしれないが、本人に聞いてみたいと思った。
今日は毎月連絡を入れる1日ではないが、携帯のメッセージアプリを開き春樹に連絡を入れた。
『春ちゃん、この前は仕事の打ち合わせありがとう。来週の土曜日、バーシャミで待ってる。会って春ちゃんと話がしたい』
春樹から返信はない。
それに一方的に『待ってる』なんて約束をしたようなことを送ってしまったのを少し後悔する。既読になっても、来てくれないかもしれないとマイナスなことを考えてしまう。
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