33 / 63

第33話 下野

伊澤(いざわ)…土曜日は、何回寝れば来る?」 スケジュール管理から調整、会議や商談などには事前準備が必要なため、秘書という立場の人を置いた。 伊澤(いざわ)という男だ。 元々、東京本社に勤務しており、人事総務にいた男を、無理矢理社長秘書という立場に置いた。 この男が物凄く出来る男で、今は全て伊澤に任せている。 もっと早くに近くにいて欲しかったと感じているのは、下野ひとりで社長業をこなすのは限界だったようだ。 「土曜日はあと二回寝たら来ますから…毎日聞きますよね?それ。マジで子供ですか?何がそんなに楽しみなんですか」 この前、赤ちゃんを抱っこしていた春樹を見かけてから、気になり過ぎて、居ても立っても居られなくなり海斗に連絡し「春ちゃんは結婚したのか?」と聞いてしまった。 すると、海斗は「はぁ?結婚?してないでしょ!」と驚いて言うが、それは本当か、確かなのか、確認して欲しいと、しつこくお願いをした。 その後、蓉から電話がかかってきて「春さんは結婚してないですよ。ひとり暮らしをしてますから」と教えてくれた。 なんでも蓉と春樹は相変わらず、プライベートで食べ放題に出掛けており、非常に仲が良い間柄だと言っていた。 そんな仲がいい奴が言うことなら間違いはなく、春樹は結婚していないということがハッキリした。 下野は、そう聞いた時、狭くて埃っぽい世界が、急に天から光がさしたように世界が開けたような気がした。大袈裟では決してない。本当にそんな気持ちになった。 これで土曜日に春樹に会えても、モヤモヤせずにいられる。そう考えるだけで、下野は気分が晴れ、仕事をバリバリとこなすことが出来ていた。 春樹はひとり暮らしをしている。 しかも春樹は結婚していない。 何度も頭の中で、その言葉が繰り返されている。 あの時、赤ちゃんを抱っこしていた春樹は、何か理由があったはずなんだ。でも、もしかしたら付き合っている人なのかもしれないと、考えると悶々としてしまう。 「銀座のテナントですが、後は最上階のみとなります。最上階は、イタリアンを予定してますよね?もうそろそろ決定して下さい。そうしないと、スケジュールが後ろ倒しになります…って、聞いてます?スケジュール通りにならなければ、楽しみにしている土曜日も返上して仕事ですから」 伊澤は物凄く出来る男だが厳しい。本社で一緒に働いていたから気心も知れている。やりやすいが、厳しい。 「聞いてるよ。ジロウさんのところだろ?わかった。すぐに決定出来るように、アプローチするよ」 バーシャミのマスターであるジロウに、銀座テナントビルの最上階にレストランをオープンしないかと、口説いている。 ジロウは昔、フィエロという名の高級イタリアンレストランを経営していた。当時フィエロは毎日大盛況で話題にもなり、流行っていた。 だけど、ある時フィエロは突然閉店した。理由はわからないが、本当に急な閉店だった。 偶然にも、下野はバーシャミでジロウに会い「フィエロのシェフだろ?」と問い詰めたら、苦笑いしながら「そうだ」と認めてくれた。 ジロウの話では、バーシャミは近々閉店する予定だという。閉店は元々決まっており、そこまでの契約で店を開けていたと言っていた。 その話を聞いた時から、フィエロを復活させ、下野がプロデュースするビルの最上階にオープンしないかと口説いている。 バーシャミは無くなってしまうし、それより何よりも、このままジロウというシェフを眠らせておくのはもったいと、下野は思っているからだ。 だから下野はバーシャミに通い、ジロウと会う度に「考えておいてくれよ?」とレストランオープンをして欲しいと口説いていた。ただ、肝心なジロウからの答えは「う〜ん…」と言い曖昧なものであった。 だけど、それも後ひと押しだと思っている。きっとジロウはフィエロを再度オープンすると下野は確信していた。 「それとさ、あの人…井上さん、大丈夫?俺さ、なんか巻き込まれてるのかな」 伊澤という秘書を置く前に、秘書気取りをしていた女性のことが気になった。 伊澤に秘書をお願いする前、勝手にインタビューの仕事などを井上は仕切っていたりしたが、別に頼んだわけではない。あの時は、やりづらいなと感じながらも、下野はそのままにしていた。 正式に秘書が決定した後でも、井上は、あの手この手で、下野を絡めた打ち合わせをやりたがる。営業戦略なので、ある程度は仕方がないが、ボディタッチは激し目である。それが少々気になるので、その辺の対応を伊澤に任せていた。 すると「これは秘書の仕事ではない!」と、始めは嫌な顔をしたけど、伊澤は、なんだかんだやってくれている。すまないと本気で下野は思っているが、任せている。 「だから甘い顔しないで言っておけば良かったんですよ。君は秘書ではない、自分の仕事だけをしろって。なんとな〜く、ゆる〜く言ったくらいじゃ通用しませんよ、あの手の女性は。社長は狙われてるんですから、匂わせもされてるし」 「えっ!狙われてる?匂わせ?」 「そうでしょう!何を今更…今までどうしてたんですか?女性関係は、ゆるゆるだったんでしょうねっ!隙だらけです。スキャンダルは許しませんよ。今は大事な時なんですから」 「井上さんは、アピールしてるなっていうのは、わかってたんだけど…」 「ぬるいですね、社長。腹いせでセクハラとか言われないように。マジで!」 冷酷な出来る男に、マジで!と半ギレされた。しかし、こんな場合、何をどう注意すればいいのだろうか。 下野は「はぁぁぁ…」とため息をつき、天井を見上げた。本社の天井は高い。上の方にある電球はどうやって取り替えるのかなと、どうでもいいことが頭をよぎる。 「…なぁ、匂わせって何?」 さっき、伊澤が言ってた言葉が気になり、聞いてみた。すると、伊澤はスマホを取り出して何か検索を始めた。 「これは、彼女のSNSです。社長の体の一部が不自然に写り込んでいます。これ、そうですよね?それと、こっちは…この前のインタビューの時でしょうか。2人分の食事が並んでます」 「うっわっ!なんだ?これ!インタビューの時だよ。食事って…この時3人だったぞ?いつの間に…」 伊澤のスマホを見て驚く。食事をしながらインタビューを受ける仕事だったから、覚えている光景だ。 確かに井上が写真を数枚撮っていたのも覚えていた。インタビュー用かなと思っていた。だけど、伊澤のスマホの中の写真は、2人だけでデートしているような感じに見える。 「社長は隙があるんです。ほら、ハッシュタグは、いつもありがとうです。何ですか、いつもありがとうって。匂わせ以外の何ものでもありませんよ」 SNSをよく見ると、 『#いつもありがとう』と書いてあった。 首を傾げていると、「隣にいるのは私の好きな人で、優しい人なんですって周りにアピールしてるんですよ。わかります?」 と、言うので「わからん…」と言うと 「見る人が見ると、この隣にいるのは社長だってわかります。それがこの人の狙い。匂わせ投稿して、これが私の男だって周りに宣言してるんですよ」 「いっ!マジ?」 こうやって狙われてるんですと、伊澤は鼻で笑いながら教えてくれた。 ◇ ◇ 仕事も忙しく、井上のこともあり今週は非常に疲れた。だけど伊澤の言う通り、あの後二回寝たら土曜日が来た。 日本全国、本日は土曜日である。 下野的には、春樹に『待ってる』と伝えた土曜日だ。その土曜日は雨が降っていた。 夕方、蓉と海斗を呼び出し、ここバーシャミで楽しく飲んで食べていた。 お腹がいっぱいになったという二人と別れて、下野はまたここ、バーシャミにひとり戻りカウンターに座っていた。 雨が降っているので、下野ひとりを残し、イタリアンバル『バーシャミ』の客は皆帰って行った。 春樹は来てくれるだろうか。 来るか、来ないか、と、何度も考えると緊張していく。だから今日は酒なんか飲む気にもなれなかった。 「下野さん、振られちゃった?来ないんじゃないの?雨だし…」 バーシャミのマスターであるジロウが軽口を叩く。ジロウには、下野の待ち人が誰だかわかるのだろう。 「そうかなぁ…やっぱり、振られたと思う?」 雨が強く降っていた。 入り口を見つめていたが、そこから目を背け、カウンターの中にいるジロウに下野は笑いかけた。 「…んっ?そうでもないか。下野さん、あと一時間ね。今から一時間でいいよ。オマケしとくよ」 「え?何が?」 ジロウが一時間オマケをすると言っている。何のことを言っているのだろうかと、また入り口を振り返り外の雨を確認する。 「ほら、振られてないみたいだよ」 入り口を指差してジロウは言った。 そこには傘をたたんでいる人の姿が見えた。

ともだちにシェアしよう!