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第34話 春樹

下野が関西で事業を立ち上げてから何年が経ったのだろうか。下野の仕事は順調なようで、噂は社内にも流れていた。 下野が関西に行っていた後も、春樹は何も変わらず仕事をし、プライベートではひとり暮らしを始めていた。 ひとり暮らし以外は、これといって目新しいことを始めたりすることはなく、ごく平凡な日々を送っている。 今日は、下野から誘われた土曜日だ。 『春ちゃん、待ってるな』と、昨日もメッセージをもらっていた。 メッセージに返信はしていないが、バーシャミにいけば下野に会えるだろう。 だが、はたして自分は下野に会えるような人間だろうかと、春樹は立ち止まり考えた。 仕事で大きく成功したわけではない。ひとり暮らしをしては失敗ばかり、料理を作ることも今だに出来ずにいる。あの頃から何も成長していないように感じる。 こんな自分と会っても下野は楽しくないだろうなと、頭ではわかっているのに、下野に会いたい気持ちは抑えられなかった。 こんな狂おしいほどの気持ちが、自分の中にまだあるなんて驚く。 この一週間、昔に戻ったかのようなメッセージを貰っていた。飛び上がるほど嬉しいくせに、怖くて返信は出来ていなかった。 『おはよう』『おやすみ』の連絡が毎日あり、メッセージの初めには必ず『春ちゃん』と、きちんと名前が書かれていた。 『春ちゃんの会社に行った時、コミュニティスペースを見かけたよ。あれ以来、マシュマロは食べてない』とか、『今日は飲んできた。飲んだ後のルールってあったよな』とか、二人の間でしかわからないようなことが書かれていた。 たまに昼時に『ご飯!』とメッセージと写真が送られてくるので思わず『賛成!』と、また二人のルールの言葉を返信しそうになったりした。 相変わらず下野からの連絡に、一喜一憂している自分がいる。やっぱり自分は成長出来ていない。下野は懐かしくて連絡してきているだけだというのに、春樹の気持ちは昔から変わっていないと確信してしまう。 部屋の掃除を終え、着替えて外に出ると雨が降っていた。 傘をさして自宅前に流れている川の反対側にあるバーシャミへ急ぐ。ここからバーシャミはすぐ近くなのに、下野に会えると考えたら、駆け足になりそうだった。 駆け足になるのを抑える。そうすると今度は足がもつれそうになった。今までどうやって歩いていたのだろうかと考えるほどだ。傘の中でひとりで苦笑いをした。 「春ちゃん」 バーシャミのドアを開けたら、下野があの頃と同じ声で春樹の名を呼んでくれた。 心臓をわしづかみにされたかのように、ぎゅっと痛くなった。 この前仕事で顔を合わせている。 その時も感じたが、下野は以前より一段とカッコよくなっていた。見惚れてしまうほどだった。 仕事で成功していると聞く。だから、全身から自信が溢れているのだろう。 吸い寄せられるように席に座り、仕事の話をしたり、近況報告をしたと思うが、実際は緊張してしまい、何を話したかあまり覚えていない。恥ずかしくてぶっきらぼうな態度になっていたと思う。 だけどいつの間にか、昔に戻ったように二人でケラケラと笑い合うことも出来た。 下野は東京に引っ越して来たと言う。以前の家の近くだというので、この辺に住んでいるんだろう。 自分もここから近くでひとり暮らしをしていると伝えたかったが、言いそびれてしまった。 「…下野さん、そろそろいい?」 バーシャミのマスターから閉店の声がかかる。心待ちにしていた土曜日は終わってしまうようだ。急に気持ちが萎んでいく。 それでも、あれだけ、家の中ではぐずぐずと考えていたくせに、やっぱり会ってよかったと思う。 好きな男は相変わらずカッコよかった。誠実な話し方も変わらなかった。やっぱり自分はこの男に恋をしているんだなと、目の前にいる下野を見て再確認させられた。 「春ちゃん、パンケーキ好きだよな?パンケーキ食べる?うちにあるよ?作ってあげるよ」 帰り支度をしながら、昔を懐かしむように下野が春樹を家に誘う。モテるんだろうなと思う。こんな感じで、さらっと誘うことなんて、春樹は怖くてできないのに。 誘われて、心臓が飛び上がるほど嬉しいくせに「やだ」と答えてしまった。相変わらず自分は、ひねくれ者だ。 しかも、下野が友人として誘ってくれているのに、春樹だけが意識してしまい「パンケーキは好きではない。ホットケーキが好きだ!」なんて『やだ』と答えた理由付けを口走ってしまった。子供っぽくて、どうでもいいことを言ってすぐ落ち込む。 その会話を聞いていたのだろう店の奥から 「…はい。これあげる」と、バーシャミのアルバイトの子が、ホットケーキセットの箱を抱えて親切に春樹に渡した。 偶然にも春樹が好きだと言ったホットケーキを作れるキットが、この店にあったようだ。 また一段と自分の幼さが際立ってしまい、恥ずかしさと、バツの悪さを感じてしまった。店の人にも聞かれたことも恥ずかしい。 しかし、誘われた時の答え方なんて、みんなどうやって習うのだろう。相手は好きな男、だけど春樹を友人として誘っている。傷つくのがわかるのに、嬉しくて断れない気持ちがこの男に伝わる日は来ないはず。 「あはは、ありがとう。助かった」と、アルバイトの青年に答えている下野に、笑いながら背中を押され外に出ると、雨はもう上がっていた。 「春ちゃん。俺、ちょっと飲んでるから、手を繋いでもいい?」 「…えっ?う、うん…」 下野との間に、飲んでいる時は手を繋ぐというルールがある。そのルールを覚えているようで、横顔を盗み見すると笑っていた。きっと昔懐かしいのだろう。数年前の話だが、随分昔のような気もする。 その他にも二人のルールはあるが、下野は覚えているのだろうか。 夢にまで見た好きな男の手を握る。 久しぶりの手は、相変わらず大きかった。 何だか泣きそうになった。 「久しぶりだね、春ちゃん。本当に久しぶりだ。ずっと会いたかったよ」 カッコいい男は、余裕があってずるいなと思う。こんなセリフを簡単に言えるなんて。こっちは泣きそうになってるというのに。 ギュッと手を握られて、春樹も繋いでいる手をキュッと握り返してしまった。

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