35 / 63
第35話 下野
「久しぶりだね、春ちゃん。本当に久しぶりだ。ずっと会いたかったよ」
春樹がバーシャミまで来てくれた。声が上擦ってしまうほど嬉しく舞い上がる。
頭で考えていたより、会ったら言葉がポロポロとこぼれ出したが、嬉しいのと緊張するのとで、ほとんど上の空だったかもしれない。
バーシャミのマスターであるジロウが、閉店だと声をかけてくるまで、二人で笑いながら話が出来た。
帰り道は春樹と手を繋いだ。
飲んだら手を繋ぐという二人の間でルールがある。
今日は酒なんて飲んでいないのに、きっかけが欲しくて、それに手を繋ぎたくて「飲んでいる」なんて言ってしまった。春樹はルールを忘れてないだろうかと心配だった。
だけど、その繋いだ手をギュッと握ったら、春樹もキュッと微かに握り返してくれた。それだけで胸が熱くなり、一瞬で昔に戻った感覚になった。
「ホットケーキでしょ、それから何食べる?明日は日曜日で休みだから、久しぶりに春ちゃんの好きな物をいっぱい作ってあげるよ」
下野は春樹を家に来るように誘った。昔のように泊まるのを前提で話を進める。
このまま、もう春樹を離したくない。やっと会えた春樹と離れたくない。そんな気持ちが大きくなっているからだ。
関西で事業を立ち上げると決めた時、春樹と離れることになり、自分で決めたことなのに少し後悔もしていた。
春樹と離れる時、笑い合うこともせず、ベッドの中でただ見つめ合って唇を重ねていた。もう二度と会えなくなるかもしれないと思った。あの後は、よく眠れずに過ごす日々があった。
あの頃、何も言えなかった。好きだとも、一緒にいたいとも。春樹には出来ない約束と思われたくなくて、何も言えなかった。
だからやっと会えた今、以前のように、家で食事をして、たくさん話をして、抱きしめて、髪にキスをして眠りたい。
後悔したあの時をやり直したい。そう気持ちばかり先に走り、前のめりになりそうだった。
会えなかった間どれだけ恋しかったか、忘れたことはなかったと、本当はそう伝えたい。それなのに、カッコつけて『好きな物をいっぱい作ってあげる』なんて言い方をしてしまう。カッコつけてるようで、カッコなんかついていないのはわかってる。
ちょっと後悔しながらチラッと隣にいる春樹を見ると、さっきバーシャミで渡されたホットケーキセットの箱を抱えながら頷き、下野の話を聞いている。
「あ、あのな...春ちゃん、」
会いたくて会いたくてたまらなかった。
ずっと好きだった、今も変わらない。そう春樹に言いかけた。
堪えきれず、もうこのまま自分の気持ちを伝えてしまおうと思い、春樹に向き合い肩に手をかけた時、春樹のスマホが鳴った。
「うわっ!ご、ごめん。寛人、電話かかってきちゃった。出ていい?」
「うっ...うん、いいよ」
タイミングが悪く鳴った電話に、顔には出さず内心がっかりする。B級映画みたいなことが本当にあるだなと下野は思っていた。
春樹は下野を背にし電話に出ている。電話口から漏れている声がうっすら聞こえるが、相手は女性のようだった。
聞くつもりはなかったが、聞こえてきた会話は「これから来て欲しい」と春樹は言われているようであり、相手の女性は切羽詰まった声をしていた。
あの時の女性と子供がチラつく。
春樹が赤ちゃんを抱きしめ、あやしていた姿が思い出される。
結婚はしていないと海斗から聞いているが、あの時見た人は、今、春樹の付き合っている人なのかもしれない。
「寛人、ごめん。今から、ちょっと手伝いに行かなくちゃ。子供が熱を出したみたいで...二人いるからさ、あっ、これ」
はい、これ、といって春樹からホットケーキセットの箱を渡された。
じゃあ、と言いながら春樹は反対方向に歩き始めた。
「ちょ、ちょ、ちょっと待った!春ちゃん!」
思わず春樹の腕を掴んでしまった。このまま離れるわけにはいかない。やっと会えたんだ、春樹を離したくない。
「子供って…?」
呼び止め聞いてしまう。なんて返事が返ってくるのか怖くてたまらないが、口から言葉が流れ出て、聞きたくないことを聞いてしまった。
「美桜の子供。双子なんだよ。だからひとりが発熱すると、もうひとりも熱が出て…二人同時に具合が悪くなるから、大変なんだ」
「えーーっ!美桜って...春ちゃんの双子の妹?佐藤さんだよね?佐藤さんの子供なのか?」
コクンと春樹は頷いている。
思わず抱きしめそうになってしまった。
そうか!あの時、見かけたのは妹の子供だったのか。あの時の女性は妹なのか!と、下野は急に元気になった。
「は、は、春ちゃん…独身か?」
だけど、本人に確かめたくて春樹の両肩を掴み、ストレートに聞く。すると、春樹は怪訝な顔をして答えた。
「はあ?なんだよ…俺は独身だよ」
「ご、ごめん、ちょっと確認。あっ!熱!熱が出てるんだろ?じゃあ、俺が車で送って行くよ。俺の今の家はここなんだ。このマンションに住んでる。だから、ほら、すぐに車出すからさ」
「えっ!ここ?」と、春樹が驚いている。バーシャミからすぐ近くだから驚いてるようだ。
駐車場に車を停めているからと、春樹に伝えると、怒られてしまった。
「何を言ってるんだ!お前は飲んでるんだろ?運転なんかできるわけないだろ!さっきから何なんだよ」
うっ…しまった。
酒を飲んでるなんて、嘘つくんじゃなかった。
春樹と手を繋ぎたいから、飲んでるなんてさっき言ってしまっている。シラフなのに、カッコつけて言ってしまった。やっぱりは嘘はついちゃダメなんだと学び、ひどく後悔する。
「じゃ、じゃあ、タクシー!そうだ、タクシーで送っていくよ」
「いいって…まだ電車あるし。ここからすぐだから電車で行くよ」
タクシーも断られてしまった。もう春樹は駅に向かいひとりで歩き出している。
「春ちゃん?だ、大丈夫か?あ、あのさ、
子供が熱を出して大変なんだろ?俺にも何か出来ることあれば言ってくれよ。手伝うよ?」
春樹と一緒になって歩き始めた。駅に向かう春樹は隣に並ぶ下野を見上げ、歩調を合わせてくれている。
「手伝うって…いいよ、別に。寛人は忙しいだろ?」
「いや、送り迎えとか…そんなのない?俺、大丈夫だよ?」
駅は近い。すぐに到着してしまった。
そろそろ終電になりそうだった。
「じゃあ、寛人。今日はありがとう」
改札を抜けて春樹が行ってしまう。
「待って!春ちゃん!あのさ、あの…電話、してもいいか?」
「えっ?いつ…?」
「い、いつならいいかって!メッセージでいいから連絡くれる?」
必死になりすぎて、何を言っているのか自分でもよくわからなくなった。
電話をするのに都合のいい日をメッセージで連絡くださいということになってしまった。自分でも相当まわりくどいと思う。
「...わかった。連絡する」
「春ちゃん、約束してくれる?俺はいつでもいいんだ。春ちゃんと電話で話が出来れば…そ、それに、ほら、心配だし、今から行くんだろ?」
「あはは…もう、わかったって。お前は相変わらず子供みたいなところあるな。案外、変わってないんだな」
今日一番の笑顔で春樹が笑いかけてくれた。
ともだちにシェアしよう!