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第35話 下野

「久しぶりだね、春ちゃん。本当に久しぶりだ。ずっと会いたかったよ」 春樹がバーシャミまで来てくれた。声が上擦ってしまうほど嬉しく舞い上がる。 頭で考えていたより、会ったら言葉がポロポロとこぼれ出したが、嬉しいのと緊張するのとで、ほとんど上の空だったかもしれない。 バーシャミのマスターであるジロウが、閉店だと声をかけてくるまで、二人で笑いながら話が出来た。 帰り道は春樹と手を繋いだ。 飲んだら手を繋ぐという二人の間でルールがある。 今日は酒なんて飲んでいないのに、きっかけが欲しくて、それに手を繋ぎたくて「飲んでいる」なんて言ってしまった。春樹はルールを忘れてないだろうかと心配だった。 だけど、その繋いだ手をギュッと握ったら、春樹もキュッと微かに握り返してくれた。それだけで胸が熱くなり、一瞬で昔に戻った感覚になった。 「ホットケーキでしょ、それから何食べる?明日は日曜日で休みだから、久しぶりに春ちゃんの好きな物をいっぱい作ってあげるよ」 下野は春樹を家に来るように誘った。昔のように泊まるのを前提で話を進める。 このまま、もう春樹を離したくない。やっと会えた春樹と離れたくない。そんな気持ちが大きくなっているからだ。 関西で事業を立ち上げると決めた時、春樹と離れることになり、自分で決めたことなのに少し後悔もしていた。 春樹と離れる時、笑い合うこともせず、ベッドの中でただ見つめ合って唇を重ねていた。もう二度と会えなくなるかもしれないと思った。あの後は、よく眠れずに過ごす日々があった。 あの頃、何も言えなかった。好きだとも、一緒にいたいとも。春樹には出来ない約束と思われたくなくて、何も言えなかった。 だからやっと会えた今、以前のように、家で食事をして、たくさん話をして、抱きしめて、髪にキスをして眠りたい。 後悔したあの時をやり直したい。そう気持ちばかり先に走り、前のめりになりそうだった。 会えなかった間どれだけ恋しかったか、忘れたことはなかったと、本当はそう伝えたい。それなのに、カッコつけて『好きな物をいっぱい作ってあげる』なんて言い方をしてしまう。カッコつけてるようで、カッコなんかついていないのはわかってる。 ちょっと後悔しながらチラッと隣にいる春樹を見ると、さっきバーシャミで渡されたホットケーキセットの箱を抱えながら頷き、下野の話を聞いている。 「あ、あのな...春ちゃん、」 会いたくて会いたくてたまらなかった。 ずっと好きだった、今も変わらない。そう春樹に言いかけた。 堪えきれず、もうこのまま自分の気持ちを伝えてしまおうと思い、春樹に向き合い肩に手をかけた時、春樹のスマホが鳴った。 「うわっ!ご、ごめん。寛人、電話かかってきちゃった。出ていい?」 「うっ...うん、いいよ」 タイミングが悪く鳴った電話に、顔には出さず内心がっかりする。B級映画みたいなことが本当にあるだなと下野は思っていた。 春樹は下野を背にし電話に出ている。電話口から漏れている声がうっすら聞こえるが、相手は女性のようだった。 聞くつもりはなかったが、聞こえてきた会話は「これから来て欲しい」と春樹は言われているようであり、相手の女性は切羽詰まった声をしていた。 あの時の女性と子供がチラつく。 春樹が赤ちゃんを抱きしめ、あやしていた姿が思い出される。 結婚はしていないと海斗から聞いているが、あの時見た人は、今、春樹の付き合っている人なのかもしれない。 「寛人、ごめん。今から、ちょっと手伝いに行かなくちゃ。子供が熱を出したみたいで...二人いるからさ、あっ、これ」 はい、これ、といって春樹からホットケーキセットの箱を渡された。 じゃあ、と言いながら春樹は反対方向に歩き始めた。 「ちょ、ちょ、ちょっと待った!春ちゃん!」 思わず春樹の腕を掴んでしまった。このまま離れるわけにはいかない。やっと会えたんだ、春樹を離したくない。 「子供って…?」 呼び止め聞いてしまう。なんて返事が返ってくるのか怖くてたまらないが、口から言葉が流れ出て、聞きたくないことを聞いてしまった。 「美桜の子供。双子なんだよ。だからひとりが発熱すると、もうひとりも熱が出て…二人同時に具合が悪くなるから、大変なんだ」 「えーーっ!美桜って...春ちゃんの双子の妹?佐藤さんだよね?佐藤さんの子供なのか?」 コクンと春樹は頷いている。 思わず抱きしめそうになってしまった。 そうか!あの時、見かけたのは妹の子供だったのか。あの時の女性は妹なのか!と、下野は急に元気になった。 「は、は、春ちゃん…独身か?」 だけど、本人に確かめたくて春樹の両肩を掴み、ストレートに聞く。すると、春樹は怪訝な顔をして答えた。 「はあ?なんだよ…俺は独身だよ」 「ご、ごめん、ちょっと確認。あっ!熱!熱が出てるんだろ?じゃあ、俺が車で送って行くよ。俺の今の家はここなんだ。このマンションに住んでる。だから、ほら、すぐに車出すからさ」 「えっ!ここ?」と、春樹が驚いている。バーシャミからすぐ近くだから驚いてるようだ。 駐車場に車を停めているからと、春樹に伝えると、怒られてしまった。 「何を言ってるんだ!お前は飲んでるんだろ?運転なんかできるわけないだろ!さっきから何なんだよ」 うっ…しまった。 酒を飲んでるなんて、嘘つくんじゃなかった。 春樹と手を繋ぎたいから、飲んでるなんてさっき言ってしまっている。シラフなのに、カッコつけて言ってしまった。やっぱりは嘘はついちゃダメなんだと学び、ひどく後悔する。 「じゃ、じゃあ、タクシー!そうだ、タクシーで送っていくよ」 「いいって…まだ電車あるし。ここからすぐだから電車で行くよ」 タクシーも断られてしまった。もう春樹は駅に向かいひとりで歩き出している。 「春ちゃん?だ、大丈夫か?あ、あのさ、 子供が熱を出して大変なんだろ?俺にも何か出来ることあれば言ってくれよ。手伝うよ?」 春樹と一緒になって歩き始めた。駅に向かう春樹は隣に並ぶ下野を見上げ、歩調を合わせてくれている。 「手伝うって…いいよ、別に。寛人は忙しいだろ?」 「いや、送り迎えとか…そんなのない?俺、大丈夫だよ?」 駅は近い。すぐに到着してしまった。 そろそろ終電になりそうだった。 「じゃあ、寛人。今日はありがとう」 改札を抜けて春樹が行ってしまう。 「待って!春ちゃん!あのさ、あの…電話、してもいいか?」 「えっ?いつ…?」 「い、いつならいいかって!メッセージでいいから連絡くれる?」 必死になりすぎて、何を言っているのか自分でもよくわからなくなった。 電話をするのに都合のいい日をメッセージで連絡くださいということになってしまった。自分でも相当まわりくどいと思う。 「...わかった。連絡する」 「春ちゃん、約束してくれる?俺はいつでもいいんだ。春ちゃんと電話で話が出来れば…そ、それに、ほら、心配だし、今から行くんだろ?」 「あはは…もう、わかったって。お前は相変わらず子供みたいなところあるな。案外、変わってないんだな」 今日一番の笑顔で春樹が笑いかけてくれた。

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