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第44話 春樹

以前、この人と下野が一緒にいるのを見かけたことがある。 今、目の前にいる髪が長くスタイルがいい女性を、春樹は見つめていた。 あの時は一瞬見かけただけだが、数秒間凝視していたから覚えている。間違いなくこの人だと春樹は確信した。 下野の会社が手がけるデリカテッセンの店が銀座にオープンした。そのオープン祝いとして、今日は海斗と陸翔、そして春樹が株式会社モンジュフーズの代表として来ている。 オープン初日なので店にはかなりの人が来ていたが、溢れた人山の中でも、下野のことはすぐにわかった。 海斗が声をかけようとしたが、下野が女性と肩を寄せ合い耳打ちをしている姿を見て、躊躇っていた。 春樹もその姿を見て、胸が大きく音を立て、足が前に動かずにいた。 目の前で、下野が女性との仲睦まじい姿を見せられ呆然としてしまった。仕事中とはいえ、二人の間には誰も入れないような雰囲気があった。 オープン祝いで行ったのですぐに帰る予定だったが、みんなでお茶をしようと下野から提案をされた。 女性と下野の雰囲気ある姿を見たくないからといって、ひとりで帰ることも出来ず、成り行きもあり、みんなでカフェに行くことになってしまった。その女性も一緒だった。 カフェで名刺交換をした。女性の名刺には井上(いのうえ)莉子(りこ)と書いてある。 そうだろうと思ったが、名刺をもらい下野の会社に勤務してる人だとわかった。 「春ちゃんさんですか?」 春ちゃんにさん付けして井上から呼ばれる。初対面なのに春ちゃんと呼ばれると何だか居心地が悪い。 だけど呼ばれたので「えっ?あ、はい」と、返事をした。少し驚いたので、変な声で返事をしてしまった。 「あーっ!やっぱりそうなんですね?この前、お子さんが間違って電話しちゃったって話を聞きました」 碧がスマホをいじってしまい、下野の番号に電話した時のことを知っているようだ。 春樹は動揺してしまう。下野が気軽にそんな話までしていると思わなかった。血の気が引くとはこういうことだと思った。 別に秘密でも何でもない。だけど、春樹の中では何となく二人だけが知る特別なことだと思っていたが、下野は違うようだ。何だか、胸が張り裂けそうになる。 「おい、井上さん!プライベートのことあんまり喋らないように」 下野が、らしくなく意外と厳しい声を出して注意していた。それでも井上という女性は「ごめんなさい」と言い、微笑みながら下野の腕に手を置いている。 一瞬間を置いて下野が腕をテーブルの下にさげたので、井上の手もテーブルの上に戻ったが、いつもそうしているのだろうかと考えてしまうような動作だった。 慣れているようで、それでいて仲がいいのがよくわかるような仕草だ。一連の流れを目の前で見ていたので、春樹はクラクラと目眩がするようだった。 「それに、何で春ちゃんのことを、」 下野が続けて言う言葉を遮り、春樹が話し始めた。 「あっ、大丈夫です。プライベートってもんでもないですし。あの、あれは妹の子なんです。まだ赤ちゃんなんですけど、勝手に電話かけちゃって…」 春樹が間に入るようにして、井上に伝えた。本当のことだし、隠す必要もない。 「あっ、そうなんですね。大変失礼いたしました」と、笑顔で答える井上を明るい人だなと思って春樹は見ていた。 「へぇっ!意外!春さんと下野さんって仲が良かったんですね。昔、会社にいる時はそんなに接点なかったですよね」 空気の読めない陸翔が、素っ頓狂な声を出して間に入ってくる。 その後は、昔の仕事のこと、下野が以前どんなことをしていたかなど、井上の質問が始まり、それに対して陸翔がペラペラと昔のことを教えていた。 「そうなんですねっ!やっぱり社長は昔からやり手だったんだぁ!さすが。今も社内では尊敬されまくりなんですっ。もちろん、私も尊敬しています。ねっ?」 と、井上は上目遣いで笑いながら下野を見ていた。 尊敬するという言葉を聞いて、この女性は、美桜が見つけてきたSNSの人なのだろうかと、春樹は考えていた。 ちょっとイメージが違う。美桜が教えてくれたSNSからはもっと計算高い女性の感じがした。 井上のように屈託のない明るい女性ではない。だから、美桜の勘違いで、やっぱり違うんじゃないかとも思う。 だけど、SNSのハッシュタグは『尊敬してる』と書いてあったなと思い出す。 「そうだっ!今度、赤ちゃんや子供向けの食事の展開を考えてるんです。春さん、陸翔さん、是非ご協力頂けないでしょうか」 井上が話を持ちかけてきた。初対面の人を下の名前で呼び、仕事のお願いするなんて、本当に明るくて人懐っこい人だなという印象を井上に持つ。 下野の会社で営業戦略として活躍する井上の次の仕事は、子供をターゲットにしていると話をしてくれた。 「もちろんですっ!お役に立てることがあれば是非!私に連絡ください」 陸翔がいつものようにいい顔をして返事をしている。下野と海斗は少し呆れた顔をしてそんな陸翔を見ていた。 「社長、遅くなりました」 眼鏡をかけた男性が下野に近づき、話しかけてきた。 「おっそい!どこ行ってた?」 下野が少しイライラするような口調で答え、立ち上がった。こんな下野の姿はあまり見たことがなかった。 眼鏡をかけた男性は、下野の秘書の伊澤という。こちらとも名刺交換をした。 「春さん?ですね。初めまして、伊澤と申します。これから末永くどうぞよろしくお願いいたします」 と、何だか丁寧な挨拶をされたが、井上と同じく春樹のことを『春』と、知っているような口調だった。 伊澤は眼鏡をかけたクールな男性だ。それでも眼鏡の奥の目が優しく、印象は良かった。 「社長、次のイベントが始まります。皆さん、大変申し訳ございません。今日は時間が限られてしまっています。下野は席を外してしまいますが、先程のデリカテッセンで土産を準備しておりますので、是非お持ち頂ければと思います」 最後まで丁寧な対応を伊澤はしてくれた。すごい秘書がいるんだなと、単純に驚く。 帰り道では、海斗と陸翔と一緒に下野の話題で持ちきりだった。 「いや〜、あの井上さんってマジで美人だよなぁ。下野さん羨ましい!あんな彼女がいるなんてさぁ」 「陸翔?あれは彼女じゃないだろ。よく見ろよ。下野さんは困ってたぞ?」 電車の中で、陸翔と海斗の会話を隣で聞いていた。 「いーや、あれは彼女です。ちゃんと見たか?阿吽の呼吸だったじゃないかっ!店でもさ、井上さんが一生懸命に背伸びして下野さんに耳打ちしててさ。下野さんの身の回りのこと気にかけてるんだろ。マジで羨ましい!スタイルも良くて、美人で明るくて…ね、春さんもそう思いません?」 陸翔に話をふられるが、返答に困ってしまう。なんて答えていいかわからず「そうだな」とだけ返していた。

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