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第46話 春樹

「良かったぁ!春さんって女の人だと思ってたんです。社長が電話口であんなに焦って、春ちゃん春ちゃんって言ってたから。女性かなぁって心配してたんですけど。男性だってわかって、ああ良かったぁって」 井上が目の前でコロコロと笑いながら、仕事とは全く関係のないことを喋っているのを見ている。 さっきからやたらと『良かった、良かった』と井上は言っている。女性ではなく春樹が男だから良かったと。それは、同性だと下野を巡って恋愛のライバルになって困るから、春樹が男性で良かったという意味が大いに含まれていた。 今日の打ち合わせは、赤ちゃんや子供がいる家族のデリを展開するので、相談したいと井上が陸翔に連絡をしてきたそうだ。 陸翔から急に一緒に打ち合わせに参加して欲しいと言われ、井上が勤務する会社まで来ている。 井上が勤務する会社とは、下野の会社だ。 今日は下野から誘われているフィエロのレセプションパーティーの日だった。 春樹は午後からフィエロに行かなくてはならない。だから、打ち合わせは陸翔だけで行くようにと伝えていたのだが、当日の朝、陸翔にどうしても一緒にきて欲しいと頼まれた。 何でも、井上に『春さんも一緒に』とお願いされたと言う。 打ち合わせの内容を聞くも、よくわからない。春樹が勤めるモンジュフーズが、下野の会社に提供するものはという話になると、井上からはぐらかされるようだった。さっきから何度もそれを確認しているが、明確な回答はなかった。 下野との約束の時間まであと30分。 今からここを出れば間に合うが、タイムリミットであった。 「すいません…私だけこの後予定があるので、ここで失礼します」と、春樹が伝えるも、「あと少しなので、本当にすいません!」と井上に言われ、中々席を立つことが出来なくなっている。 少し仕事に関係した話しをするが、また話題は下野の話に戻ってしまう。これだと仕事ではなく雑談になるが、空気を読めない陸翔が一緒になって、雑談を進めている。 「井上さんと下野さんって仲がいいですよね。社員という枠を超えてる?なんて雰囲気もありますよ」 ちょっと砕け過ぎな会話を陸翔がしている。小声で注意しても、井上に会話を上書きされてしまい届かない。 「仲がいいというか、ほとんど一緒にいます。もうずっと、昼も夜もかなぁ。周りにはそろそろかなぁって言われちゃってて…社長の身の回りも色々やる事あるし。だから、そろそろ社長のところに引っ越ししようかなっなんて」 うふふと言い、井上はまたコロコロと笑う。下野のところに引っ越しと言い、一緒に住むようなことを口走る。 「え?そろそろって。ってことは?」 陸翔もニヤニヤとしながら聞いている。そろそろ下野と井上がまとまるとか、そんなニュアンスのことをさっきからずっと仄めかされていた。 「うぁっ!すいません!ちょっと電話なので、席を外します」 「えっ、おい!陸翔…」 どこから電話がかかってきたのかわからないが、陸翔はバタバタと立ち上がり電話に出ながら部屋を出ていく。 時計をチラッと見ると、下野との待ち合わせの時間はもうとっくに過ぎていた。 「あの…井上さん。仕事の話が全く進みません。赤ちゃんや子供がいる家族向けのデリを御社が展開するため、弊社の商品をという話を聞いております。違いますか?」 「そうです…ですが、陸翔さんのお話が、なかなかまとまらないなって感じています。それより、お時間大丈夫ですか?」 二人になると井上は更に屈託のない笑顔で春樹に話しかけてくる。それに、時間は大丈夫かと聞かれるが、ふふふと笑いながらであり、仕事中という緊張感は無いようだ。 「申し訳ございません。私もこの後予定がありますので、もう一度別の日に打ち合わせを、」 と、春樹は今日の打ち合わせを終了させようとするも、井上が続けて話をする。 「あのぉ…もう時間も過ぎてますよね?待ってないんじゃないですか?大切な日に遅れるなんて、信用問題になりそう…大丈夫ですか?」 「えっ?」 井上は、この後の春樹の予定を知っているような口ぶりで言う。 時間は大丈夫か、過ぎているのではと言いながら、大切な日に遅れるなんてと眉をひそめて井上は心配そうに春樹を見ている。 「誘われた時、春さんが社長の性格をわかって、断ってくれればよかったかもしれませんけど…そんなの難しいですよね。社長はそんなとこあるんですよ、本当にすいません。社交辞令っていうか、言ってしまってから後悔しちゃうんです、あの人。まさか相手が本気にするなんて思わないから」 何を急に言い出したのか。 うちの社長がすいませんと、明るく謝られる。だけど確実に、今日のレセプションパーティーのことを言っているとわかった。 レセプションは、下野が社交辞令で春樹を誘ったと井上は言いたいようだ。 井上の喋りに聞き入ってしまう。明るく、はきはきとした声は、悪気があるわけではないように聞こえる。フレンドリーな感じではあるし、春樹を心配する言葉も言い出している。 一瞬、計算高い女性か…と思ったが、話を聞くうちに、やっぱり違うのかと思い直してしまう。井上のことがよくわからない。 「井上さん、今日のレセプションのことをおっしゃってますよね?そうなんです、私は、フィエロにお伺いする予定になってますので、」 「ですからっ!春さん、私は心配ですよ?もう時間は過ぎてますし、今から行っても、お店には逆に迷惑じゃないですかぁ。それに到着するころには、レセプションは終わっているでしょう?」 心配と言いながら、井上は必死になって春樹に向かってくる。だが確かに、時間はとっくに過ぎている。井上の言う通り、遅れて行くには、お店に迷惑をかけてしまうかもしれない。 「ですが…井上さん、申し訳ございません、本日は、」 繰り返しであるが、春樹が今日の打ち合わせを終了させることを口にし、また時計をチラッと見ると、井上の口調が更に強くなった。 「春さん…本当にすいませんっ!社長が春さんに連絡ばっかりしてるから迷惑ですよね?本当に、男同士で連んでいるのって、時間の無駄なのに、楽だからって春さんに甘えてるんですよ。もうっ!他にやることあるよ?って言ってるんですけどね」 「他に…とは…」 井上の言葉に引っかかりを覚えて、聞き返してしまう。 「えっとぉ…そろそろ社長の優秀なDNAを残した方がいいって話をしてて…春さんもそう思いません?子孫を残さないなんて無意味だって話もしてるのに…だけどその辺のんびりしちゃってて。わかってるはずなのに、あの人、まだいいかって思ってるんですよ。もう…」 恥ずかしがりながら、井上は俯きコロコロとまた笑いながら話をする。その話は、結婚して子供を作るということだ。下野のような優秀なDNAを残した方がいいと言うことは、子供を作ると言いたいんだろう。 「うーん…男の人ってめんどくさがり屋さんなんですね。だから私がしっかりしてないと…って、まぁそれも仕方ないかぁ」 絶句している春樹を前に、何度となく井上は下野との関係を仄めかしてくる。やっぱり下野と井上は付き合っているのだろうかと考える。 小さくため息をつき、時計をもう一度見る。 下野との待ち合わせの時間は過ぎてしまっているし、今から行ったら迷惑かもしれない。だから、このまま行かなくてもいいかという考えになる。 大切な日に遅れるなんて、大人として管理能力が足りない。それにきっと下野には呆れられてしまってるはずだ。お店に謝罪の連絡を入れようと思っていた。 「春さん、ここで何をしてるんですか?」 急に男性の声がしたので、ハッと顔を上げてドアの方を見ると、下野の秘書だという伊澤が部屋に入ってきた。その後ろには陸翔の姿も見えた。 「伊澤さん、お久しぶりです。先日は、」 「春さん!なんでここにいるんです?フィエロのレセプションはどうしたんですか!」 春樹の言葉を遮り、伊澤は真剣な顔で春樹に近づいてくる。 「すいません、伊澤さん。今日は遅れてしまいました。もう時間的にも行けそうにありません。なのでお店には私から連絡を入れておきます。下野さんには改めて謝罪のご連絡を、」 今日はもう行けないだろう。下野の改めて謝罪をと春樹は伊澤に伝えた。 「いいえ、下野は待ってます。あなたのことだけを待ってるんです。何日も前から今日のために、仕事も調整してきました。春ちゃんと約束をしたと嬉しそうに言ってました。今からでも遅くはありません。フィエロに向かってください」 「…伊澤さん。でも、この時間では、」 「春さん、お願いです。あなたじゃなきゃダメなんです。今からでも遅くありません。私からも店には連絡を入れておきます。大丈夫です。どうか、下野をよろしくお願いします」 伊澤に、丁寧に頭を下げられた。 伊澤は、やっぱりメガネの奥の目が優しい。こんな切羽詰まった時にそんなことを考えるのはおかしいってわかってるけど。 春樹は頭を上げ、前を向いて深呼吸した。 そうだった、約束をしている。 下野と約束をしたんだ。 他の誰でもない、約束をしているのは下野なんだ。周りの人の目や声や言葉なんて、そんなの後で考えればいいことだ。 もし、下野が今の春樹の立場だったら、諦めずにきっと行動に移してるはず。春樹はそう考えた。 今まで全く俺はどうしてたんだ、ぐだぐだと頭でばかり考え、ボンヤリとしていた、答えはシンプルなのに。 「春さん。今日の打ち合わせは、後日、仕切り直しするように担当者に伝えます。調整しますから」 伊澤は怒ったような厳しい顔で周りにいる井上と陸翔をを見渡した。 そうだ。 行かなくちゃ。 「は、はい。し、失礼します」 春樹は荷物をまとめて会議室を飛び出した。

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