50 / 63

第50話 春樹

シャワー浴びたい。 あ、玄関…鍵かけてないかも。 スーツはどこだろう。 ハンガーにかけなきゃ… シワになっちゃうかな。 そうだ、クリーニング屋… シャツを取りに行くの忘れてた。 それより...今は何時なんだ。 やりたいことが色々あるけど、身体が重く動かない。自分がベッドの上にいるのはわかってる。だけど、ベッドから下りることさえも今は難しように感じる。 布団とは違う肉厚で逞しい腕が、後ろから身体に巻き付いている。この腕が重くて動けないのかもしれないなぁと、自分とは遥かに違う逞しい腕を見つめた。 背中にも熱い肌を感じている。 冬だというのに、その肌は汗ばんでいるようだ。だからなのか、今日は随分と暑い気がする。いつもより部屋の温度が跳ね上がったようだ。 春樹はモゾモゾと動き出す。 すると、腕だけではなく、足も絡まっているのがわかった。やっぱり身体が動かないと感じたのはこれが原因なのかと思う。 『がんじがらめ』という言葉が思い浮かぶほどの恰好だ。だけど、どんな漢字だっけ、がんじがらめって。 「ん?春ちゃん、寒い?」 モゾモゾと動く春樹が寒がっていると大きく勘違いしたようで、その逞しい腕は、もっと力強く抱きしめ直す。 「違う...重い。動けない...暑い」 もっとちゃんと言葉にしたいと思っているが、それだけ言うのが精一杯である。それに自分の声が枯れてるではないか。声を発した春樹は驚いた。 「ごめん!大丈夫か?動けない?えっ?どうしたっ!」 後ろの肉厚が急に慌てて動き始めたので、身体が離れてひんやりと涼しくなった。ごろんと寝返りを打ったら、上から下野は春樹を覗き込んでいる。薄暗くて顔は良くわからないけど、心配そうな声で春樹の名を呼んでいる。 「あははは、なんでそんな声出してんだ」 春樹は掠れた声で笑った。一度笑ったことで身体が軽くなった気がした。 「声、枯れてるな…辛かった?」 「全然、辛くない。何回セックスしたんだろうな。俺、初めてだったけど気持ちよかった」 「春ちゃん!」と言いながら、下野がまた抱きついてくるので、ちょっと離れろと耳元で言うと、ノロノロと身体が離れていく。春樹はまた可笑しくなり、笑い出してしまった。 本当に、何回セックスをしたのだろうか。そもそもセックスってどうやって数えるのだろう。射精を一度したら一回なのか。だとしたら、もう相当な数になるのかも。 下野がまたチュッ、チュッと春樹の身体にキスをしている。このままだとまた始まってしまいそうな感じだ。 だけど今はもう身体が思うように動かない。途中から下野に容赦なく抱かれたというのは覚えている。 「身体が…上手く動かない。足も、なんか、こう...震えてるような気がする。そうだ!寛人、玄関の鍵かかってないと思う」 そう、まずは玄関の鍵が気になる。 今日は自分でドアを閉めたわけではない。 下野が後ろ手でドアを閉めたから鍵はかけていないだろう。 「ああっ、鍵!鍵だな、今、閉めてくるよ。あれ?俺のパンツどこだ?ああっ...すっげ。やっば...」 「なに...」 やはり玄関の鍵はかけていないようで、下野も慌てていた。 だけど、パンツを探し出しヤバいと口ごもっている方が気になる。言いづらい何かがあるようなので、春樹は下野の方を見ると、ボクサーパンツを手に取り、凝視しているようだった。部屋が薄暗くて見えにくいが、下野は難しい顔をしているんだろうなと思う。 「さっき、拭くものが無くて俺のパンツで拭いたからさ、すげぇことになってるな。うーん、うっ...やば、こっちも」 こっちという下野は、ベッドの上で春樹の下着を見つけたようだ。それを下野が手に取り広げている。ところどころ濡れているようで、濡れたところだけ色が濃く変わっているようなのは、薄暗い中でも何となくわかる。 ベッド全体も乱れている。二人の下着にもベッドにも多分、精子やローションが飛び散っているようで、手で触れたところが濡れていた。 かなりひどい散乱状態なんだろう。部屋が薄暗いから見えにくいが、明るかったら絶句するレベルかもしれない。 「シーツを替える必要があるな。だけど、替えのシーツは洗濯中だから…」 替えが無い。しかし、このままここに寝るのはちょっと難しい。仕方がないので、バスタオルを代用とするかと考えているうちに、下野は玄関の鍵を閉めて戻ってきていた。 玄関の電気はついているが、部屋の電気は消えたまま。さっきまで外からほんのりと明るさが部屋の窓をつたい入ってきていたけど、今もう暗くなっている。 部屋の中は、申し訳程度の玄関からの光が辛うじて入ってくるだけなので、ベッドでは薄暗く、下野の顔も逆光で見えにくかった。 「春ちゃん、俺の家に行こう。歩くのが難しいようであれば、負ぶって連れていく。 今日は一旦、俺の家に泊まってもらって、掃除と洗濯は明日だ。俺がやるから、」 「何言ってんだ。負ぶってなんて無理に決まってるだろ?洗濯なんて別にいいよ、大丈夫だから…寛人は相変わらず面白いことを言うな。あははは」 細身とはいえ春樹だって男だ。その男を負ぶるなんて可笑しいと春樹は笑った。 「ダメだよ、このままじゃここで寝られないだろ。それに、せめて今日は離れないでいてくれよ。あっ、春ちゃん腹減ったろ?俺、何か作るよ。なっ、いいだろ?俺のとこ行こう?」 笑っている春樹に対して、下野は笑わずに真剣に言う。こんな真剣になって言う下野は久しぶりだ。関西に行く前以来かなと、過去を思い出す。春樹が返事をしないので、下野はまだ必死に喋っている。 下野の家は、春樹の家の目の前である。数分で到着するだろう。だけど、今は動く気になれない。もうちょっとこのままでいたい。乱れたベッドの上で、二人でいたい。 「うん、わかった。だけど、もう少し後にして欲しい」 今は何時頃なんだろう。口に出して言わなかったが、下野には伝わったようだ。 「今、23時だって。かなり無理させたな、春ちゃん本当に大丈夫?」 スマホを下野は手繰り寄せて確認していた。スマホの光で下野の顔が一瞬見えたが、その顔は春樹を見て笑っていた。 「あはは、大丈夫かな。大丈夫じゃないかな。わかんないや」 冷蔵庫に水が入ってるというと、下野は取ってきてくれた。 水も飲まずにずっとセックスだけをしていたのか。下野は身体も大きいから体力はあると思う。だけど、想像するよりセックスって長い時間かかると知った。 それに、春樹自身にも驚きがある。こんなに何回も射精したことなんて生まれて初めてだ。自分も案外体力があるんだなと感じた。 「ここから、俺の家見える?」 下野がカーテンを開け、掃き出し窓から外を見ていた。外からのボンヤリとした灯りで、薄らと下野のシルエットが浮き上がっている。 ベランダに出て外を見たいような素振りを見せる下野に「見えるよ」と声をかけて、二人で真っ裸でベランダに出てみた。 足が震えて立てないかと思ったけど、意外と大丈夫なようだ。だけど、ベッドを下りてからの最初の一歩はバランスが悪く、よろよろとしてしまう。暗い部屋の中でも下野にはそれが見えたようで、支えてくれていた。 部屋からカラカラと音を立てて掃き出し窓を開けた。ベランダに出てると、すっきりとした空気が見にまとう。冬の夜、外の空気は気持ちがいい。 「えーっと、あそこ。わかるか?緑の植木がある部屋のもっと上。あそこから真っ直ぐ上にいったところから、お前のチカチカする点滅が見えるんだ」 春樹は、自分はいつもここからスマホの光を点滅させていると下野に伝えた。 へぇ…と嬉しそうな声をだして、下野は春樹の話を聞いていた。 「えー?あそこか?うーん、暗くてよくわかんねぇな。いち、に...何階だ?ん?あれ、見失った。どこだ?緑は…」 下野はベランダの手すりに寄りかかり、自宅マンションの階数を数えている。 「そうそう、緑の部屋の上だけど、斜め上になるのかな...と、もっとこっち」 玄関の光はベランダまで届かない。今日は月が出ていないから外も暗い。部屋もベランダも暗いけど、ベランダに出ると下野の顔はぼんやりと見えた。 チュッとベランダで下野にキスをされた。頬に唇にとキスが移動していく。腰も背中もガッチリと抱き寄せられ、まだよろよろとしている足腰を支えてくれていた。 「なぁ、寛人…幻滅した?」 さっきは興奮して色々と口走ってしまった。だから春樹はボソボソと小さな声で下野の耳元で囁いた。 「何が?」 下野も春樹に合わせて小声になる。耳元で囁かれてオマケにチュッと、耳にキスもされた。 「だって、寛人は俺のことピュアだと思ってんだろ?それなのに、こんなことして」 「あんなことして、あんな物も持ってたりして?」 クククと小声で笑っている。時間を忘れてセックスしたり、さっきの箱の中身を思い出したりしているのだろう。 憎たらしい男だ。 「むっ…あれは...仕方ないだろ。寂しかったんだから」 だけど、あんな物とはどっちのことだろう。ローションなのか、ディルドのことなのか。今は聞かなくていいけど。 「幻滅なんてしないよ。こうしているのがまだ半分信じられない程、嬉しくてたまんないんだから。ピュアでも、あれを持ってても、春ちゃんならいいんだ。俺は春ちゃんのことが、ずっと好きなんだ。だから…こうなったら絶対離さないよ。長い離ればなれの時間は終わりだからさ…」 キスをする。 それも気持ちがいいキスをする。 狭いベランダの、夜の真っ暗な外でキスをする。 「春ちゃん、寒いから部屋に入ろう、なっ?…っていうか、また俺、ヤバいかも」 セックスをしていて暑かったとはいえ、流石に今は冬なので、全裸でベランダにいるとすぐに寒くなる。 部屋に入り、乱れたベッドの上にまたゴロンと横になる。やっぱりまだ身体が重い。それに大丈夫だと思っていたが、足がまた震えてきた。明日は筋肉痛かもしれない。 「春ちゃん…」 「ん?」 「また新しいルール作る?」 薄暗いベッドの上で下野は器用に春樹の唇にチュッチュとキスをする。下野からは春樹の唇は見えているらしい。 「えっ…?うーん、そうだな。ルールか…うーん」 「あははは、何だよ春ちゃん。もうルールは必要ないか?」 「違うよ。新しいルールっていうから、すぐには思い浮かばないんだ」 キスをしてセックスもした。これからは、自分の気持ちに素直になって、口に出してもいいんだろう。急に贅沢になったようで、アレもこれもと言い出すとバチが当たりそうだけど。 「じゃあさ、毎日キスするとか。毎日好きだって言うとか…ルールに入れようか」 「そんなの!ダメだ。それだと無理矢理だろ?義務みたいになるじゃないか」 「ルールに入れたらそりゃそうか。じゃあ…想いが溢れそうになったら堪えずに伝えるってのは、ルールに入れていい?」 なんだそれって春樹が言うと、俺も何を言ってるのか自分でわからないと下野は言う。だから二人でゲラゲラと笑う。 「好きだ…春ちゃん。大好きだ。今は気持ちが抑えられない。俺は春ちゃんが、好きで好きでたまらないんだ…」 ギュゥっと力強く抱きしめられる。二人で笑っていたけど、下野の声を聞くと胸が締め付けられる。 「俺も…寛人が好きだ。自分の気持ちを口に出して言っていいなんて、今まで考えられなかったけど…でも、俺も言いたい、寛人が好きだって。口に出して言うとなんだかすごく嬉しい」 口に出して『好きだ』と言うと、自分の声が耳に戻ってきて確信する。心の中で言うのとは大違いだった。 「恋人同士になったんだから、ルールも更新しようぜ。新ルールは、想いは口に出して伝えるだな。よし、決まりだ」 わかったと伝えたかったが、また下野があまりにも強く抱きしめて、キスをするから上手く答えられなかった。 感情は人間の大切な財産だと感じる。 色々な感情が知れて今は嬉しく思う。 「…なぁ?ホットケーキ食べる?」 春樹がそう言うと「もうちょっと後でいいよ」と下野は答えてキスを再開していた。

ともだちにシェアしよう!