60 / 63

nanny 第4話 春樹

「やぁのっ!やーーっ!あおもっ!」 「いやっ!やぁぁぁー!ろっとぉぉ…」 二人には、いつもと違うことが何となくわかっているんだろう。 『ひろと』と発音するのが難しいらしく二人は『ろっと』と下野のことを呼んでいた。いつも沢山遊んでくれる『ろっと』が、どうやら何処かに出かけるようである。だから二人は今朝、部屋の中で下野の後をつけ回し引っ付いていた。 朝ごはんを食べた後、仕事に行くためスーツに着替えた下野の後を、双子がついて回るから下野も困り顔になっていた。 それに、双子が自らの意思で、両手を広げ下野を真っ直ぐ見上げて『抱っこしてくれ』『遊んでくれ』と訴えている。 下野は上着を脱ぎ、出勤前に派手に遊んであげていた。春樹はその様子を見て、あんなに遊んであげると、玄関で大泣きするだろうなと思っていたら案の定、下野が出かける時に、ギャン泣きされてしまった。 遊んでいた『ろっと』がいなくなるのは嫌だ!と、二人は全身で言っている。 「碧、優…泣き止んでくれ。ごめんな、会社に行かないといけないんだ。ほら、これからママに会えるぞ!よかったな。あ〜泣き止んでくれよ…春ちゃん、俺、会社に行けないかも…」 玄関で跪き、双子を交互に抱きしめている下野は、碧と優の涙を丁寧に拭いてあげたり、抱っこしてあげたりしている。下野の仕立ての良いスーツが汚れるのが少し気になってしまうほどだ。 ギャン泣きしていた双子は、少しずつ落ち着き、ぐすんぐすんと泣き方が変わってきた。 「ほら、早く行け。今のうちに」 いつまでもグズグズしてないでと、春樹が笑い声を抑えながら言うも、下野はまだオロオロとしている。 「うっ…じゃあな、またろっとと遊んでくれよ?碧、優、また待ってるな」 何とかドアから外に出ようとしているが、後ろ髪が引かれるようで、下野は立ち止まったままである。それを見ると本当に笑いが止まらない。あのいつも余裕綽々の男が狼狽えているのが面白い。 「優、碧!ろっとにバイバイしてあげて!お仕事行くんだって、ろっとすごいねぇ、えらいねぇ!頑張ってって、ほら、」 春樹に言われた通り二人はバイバイと手を振っているが、泣き腫らした真っ赤な目で下野を見ている。 「ほら、寛人!早く行けって」 「うっ…い、ってきま、す…」 子供たちと永久にお別れするわけではないが、当分は会えなくなるので、下野は相当ダメージを喰っているようだった。 玄関のドアが閉まった後、双子は意外とケロッとした顔をしていた。だけど、下野はきっとまだ引きずってるんだろうなと思う。あの調子じゃ昼頃までかかりそうだなと春樹は思ってまた笑ってしまった。 「よーし、じゃあ、バナナかリンゴ食べる?おいで!」 二人をリビングまで連れて行った。 スマホには玲司からメッセージが届いていた。もうすぐ病院に到着するようだ。 下野がいないこの部屋は少し寂しい。双子が来てからは、いつも春樹と下野はバタバタと双子と追いかけっこしていたが、今は少しがらんとしたただの広い部屋に見える。おもちゃは置いてあるままだが、今朝は二人共それで遊ぶ気配もない。 それほど下野は存在感があるんだなと感じる。双子も寂しく感じているようで、春樹にピッタリとくっついてくる。 下野は本当に何でも出来る男だと再確認した。双子の子供をお風呂に入れるなんて、どうしたらいいのかと途方に暮れるところが、下野は何てことないように昨日の夜もこなしていた。仕事が出来る男は、どんなこともそつなくこなすことが出来るらしい。 「春ちゃーん」「はるぅ!」「はるぅ」と、毎日三人の声がバスルームから聞こえていた。お風呂から出る時の合図だった。 お風呂には下野が二人まとめて入れてくれる。お風呂から出た双子を受け取るのは春樹の役割だった。 「おいで!碧、洗ってもらったの?キレイキレイになったね。…はい、ここ座ってて。ほら、優!こっちきて!いいの、寛人はひとりで出来るから!」 優はいつも下野の手を引っ張っていた。双子から見たら体は大きいけど、下野のことは自分と同じだと思ってるところがあるらしい。優からしたら、下野も春樹に体を拭いてもらう順番待ちをしているように見えているのだろう。 初対面の時は人見知りが激しく、大きな体の下野にビクついていた優だが、今ではすっかり仲良くなり、いつもべったりとくっついていた。 「あははは、優は俺のこと心配だもんな。じゃあ、俺も春ちゃんに拭いてもらおうかな。優、ありがとな」 大笑いしている下野の声がバスルームに響いていた。つられて優も碧も大きな声で笑っていた。そんなことを春樹は思い出し、またひとりで笑ってしまった。 予定通り玲司が美桜を連れて来てくれた。コンシェルジュを通り、下野の自宅に上がった美桜は部屋の中を見て爆笑していた。 豪華なマンションは、おもちゃで溢れかえっている。「いい男だ」と涙を流しながら爆笑して美桜は言い、そんな楽しそうなママを見て双子も興奮して笑っていた。 「ありがとう、春。本当に助かったわ。この子たちは、また遊びに来てお泊まりしてもらうから」と美桜は言い、双子を連れて帰って行った。美桜が元気そうで良かったなと春樹は一安心していた。 誰もいなくなった部屋はもっと広い。 こんな広い部屋に下野ひとりを置いておくわけにはいかない。あいつは意外と寂しがりやなんだと春樹は考えて笑った。 リビングにあるおもちゃを片付け始める。片付けても終わりが見えない。どんだけあるんだと、苦笑いしながら手を動かし、空いてる部屋に収納しようとしたら、まだ未開封のおもちゃの山を見つけた。 あちゃぁ…こりゃあ大変だ。春樹にも伝えず下野はまだまだおもちゃを買っていたようだ。というか、毎日忙しくて未開封のおもちゃの存在を忘れてたのかもなと、考えながら手を動かしている。 今日は帰りが遅くなると言っていた。春樹は会社を休みにしているし、時間はたくさんある。下野が帰ってくるまでに片付けられればいい。 リビングがなんとか目処がついたので、次はとりあえず洗濯をしようと春樹はベッドルームに向かった。 ベッドの上にライオンが寝かしつけてあるのを見つけた。ライオンのパペットにタオルケットがかかっている。 碧だ。 碧はライオンがお気に入りで大切にしていた。寝る時も一緒で、部屋の中で遊ぶ時もライオンを持ち歩いていた。だから、碧がライオンをベッドに寝かしつけていたんだなと春樹にはわかった。 双子が使っていたタオルケットをかけて、パペットのライオンはスヤスヤと寝ているように見える。 春樹はそれをスマホで写真に撮り、下野に送った。こんなの見たらまた下野は困った顔をしちゃうかもなぁと、今朝玄関でオロオロしていた下野を思い出した。 昼過ぎに、ピコンと携帯が音を立てたから、覗いてみると下野から返信があった。 『春ちゃん、困った…』とやっぱり双子を思っている内容が書かれていたが、そのメッセージとは別に下野からも写真が送られてきていた。 下野からの写真には青いミニカーが写っていた。それは優がいつも大事にギューっと握っていたミニカーである。 『ミニカーどうした?』と下野に返すと、『スーツのポケットに入っていた』と返信がきた。 『なんで?いつ?』と再度返信すると、これは多分、優が自分で下野のポケットに入れたんだと思うと教えてくれた。下野の会社の子育て世代達が、口を揃えて言っているという。 それを聞き、ああ、もう…と、春樹は胸が何だか熱くなった。人見知りで、最初は下野と距離を置いていた優が、下野の上着のポケットに自分の大切なミニカーを入れていたんだと考えると本当に驚く。 二人共、いつの間にか、こんなことが出来るようになっていたんだなぁと、春樹は感慨深く思う。 碧と優は今日、ママと会えるのがわかっていた。下野とは離れるというのも、なんとなくわかっていたのだろう。 優はきっと、下野が寂しくないようにと、自分の一番大切なものをポケットに入れてあげていて、碧は下野がひとりで寝るのが寂しくないようにとベッドにライオンを残してくれていたんだと、春樹には双子の気持ちを思った。 『寛人が寂しくないようにって、優が大切なミニカーをポケットに入れてくれたのか。碧も大切なライオンを寝かしつけて、置いていったし。二人共、寛人のこと何だか心配してるのかな』 と、下野に返信した。すると『泣きそうだ』と、もう一度返信がきた。 碧と優は、下野のことを遊んでくれる人と認識しているが、感覚では自分たちと同じくらいだと思っているところもあるようだった。 楽しく遊んだり、笑ったり、子供目線で接する下野をやっぱり同じように寂しく感じるかなって心配していたと思う。 『春ちゃん、今日は早く帰る』 昼休み最後に下野からそうメッセージが届いた。居ても立っても居られないのだろう。 一緒に暮らそうと何度も下野から言われている。付き合いも安定してきているから、春樹もその気持ちはあるが、なかなか同棲までは踏み切れなかった。 だけど、こんな寂しい気持ちでこの広い部屋に下野ひとりを置くわけにはいかない。寂しさをひとりで堪えている下野を想像すると、こちらの胸が押しつぶされそうになるからだ。 一緒に暮らしてくださいと、今日帰ってきたらちゃんと伝えようと春樹は心に決めた。自分の気持ちを行動に移す時だ。 だとしたら、やることはたくさんある。 とりあえず今日帰ってきた時には、笑ってもらえるようにしておきたい。 春樹は腕まくりをして、急いで掃除の続きを始めた。

ともだちにシェアしよう!