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nanny 第5話 下野
久しぶりに会社に出勤すると、打ち合わせや会議があり、何やかやと、やることは分刻みであった。
会社は、赤ちゃんや子供がいる家族向けデリカテッセンの展開に力を入れ始めている。メニューの打ち合わせを何度も繰り返し、試作品が毎日出来上がり、最終調整の段階に入っていた。
春樹の会社である高級スーパーでの販売も決まっていたが、同時に大きな商業施設内にも店舗を置くことになっている。その報告を会議室で聞いていた。
「…そっか!やっぱりコレは人気なんだな。こっちと、こっちはよく食べてくれた!うどんとか麺類を好むから、それに合うおかずがあると本当に助かるんだ」
メニューの最終報告となりその話を聞いてる時、ここ数日、双子がよく食べてくれたものを下野は伝えていた。
「社長のお子さんですか?」
「ん?いや、違う。うーん、親戚の子ってとこかな。2歳なんだ。あっ、もうすぐ3歳か!双子で男の子なんだよ。パッケージも興味があったようでさ『ブーブーだ!』ってすごく喜んでさ、」
報告をしている社員たちが探るように質問をしてくる。一週間在宅勤務していた社長が、会社に出て来たら突然子供のことを語り出したから驚いているんだろう。
「子供がいると一日が早いよなぁ。ひとりでは知らなかったことが子供を通してたくさん知れた。育児中の人たちは本当に大変だからさ、毎日のご飯の一品でも手軽に買えるといいよな。次は駅中とかも展開を考えてるよ」
会議も終了となる。今後の展開を軽く伝えた時、何気なく上着のポケットに手を入れると、コロッとした物に触った。
何だろうと思い、それを掴み机の上に出してみると、それは青いミニカーだった。
「社長?何ですか?それ。ミニカー?」
「あー、スポーツカーですね。うちの子もそのシリーズ好きで集めてますよ」
と、下野が机に置いたミニカーを見て、口々に社員から言われる。
下野は皆の話を聞きながら、ミニカーをジッと見つめた。このミニカーは優の物だ。遊ぶ時はいつもギュッと握っていたからよく覚えている。
「何でポケットに入ってたんだろ。あ〜、なくなったって探してるよな、やべっ、失くして泣いてるかも」
優がいつも大切にしている物だ。何故、スーツの上着に入っていたんだろうと、下野は不思議に思いながら、独り言をいい、ぶつぶつ呟いた。ミニカーは、優にすぐ届けなくてはならない、優の大切な物だからなと考える。
すると、周りにいる育児の先輩たちがそれを見て「う〜ん」と微妙な顔をして笑った。下野に、そのミニカーは子供がワザと入れたんだろうと、口々に言い始めた。
「あるあるですね。単純にイタズラして入れることもあれば、貸してあげるって意味で入れることもありますよ。うちは、カバンに色んな物を入れられます」
「ですよね、うちもそうでした。小さい頃はそんなことよくあったなぁ」
「大切な物とか、お気に入りの物を入れてくれる時が何故かあるんですよ。もう、胸がギュッとしますよね」
と、皆心当たりがあるらしく、口を揃えて言っている。
いつ入れたんだろうか…
今朝、大泣きしていた時だろうか。優が一番大切にしているミニカーを下野のポケットに入れたと考えると、急に目頭が熱くなった。
「これ…凄く大切にしてて、肌身離さずだったんだけど。そっか…どうしようかな」
それだけ言うのが何だか精一杯だった。
昼休み、デスクに置いてミニカーを写真に撮り、春樹に送ろうとすると一足先に春樹からメッセージが届いていた。そこには、ベッドでライオンのパペットが寝ている写真も一緒に送られていた。
困ったなぁ。と、下野は天井を見上げて考えた。
人生で子供を持つことは考えていない。それは、自分の生まれた環境のこともあり、選択肢には入っていないものだった。
これからの人生は春樹と共に歩んでいく。男同士だから子供を作ることはもちろんない。だけど、春樹の妹には双子の子供がいる。その子達との関わりは、これからずっと続くことになる。
困ったなぁとは、泣きそうになったこと。
こんなこともあるんだなと、下野は知ることになった。胸が締め付けられる想いである。子供がどんな気持ちでミニカーを入れたのか、実際のところはわからない。だから、入れた理由なんてもんは、大人の勝手な解釈だということはわかっている。だけど、下野の心の中にこんな気持ちが初めて広がった。それは事実だ。
優はきっと下野にミニカーを貸してあげたかったんだ。碧はまた下野にライオンで遊んで欲しいってベッドに寝かせたんだ。
それでいいじゃないか!そう考えて俺は泣きそうになったっていいんだ!あの子たちは優しい。それが大人の解釈だ。俺の解釈だ。下野はそう考えた。
春樹にメッセージを送った。
「春ちゃん、今日は早く帰る」と。
今日は遅くなるかもなんて春樹に伝えてあったけど、こんな日は早く家に帰って春樹に会いたいと思った。
明日から巻き返すからと、伊澤にお願いして、定時で会社を後にした。
家に帰ると春樹は待っていてくれた。玄関の開く音がわかったようで、パタパタと走り寄ってきてくれた。
「春ちゃん!」
「おかえり。あははは、どうした?」
玄関で、ぎゅーっときつく抱きしめたから春樹は笑っている。
「今日一日、俺は泣きそうだった!」
春樹は笑いながら「だと思った」と言ってくれた。身体がぐーっとしなるほど、春樹をまた抱きしめた。
この気持ちはなんて言うのだろう。
「ご飯出来てるぞ。味は保証しないけど、とりあえず作ってみた。それと、ビデオ通話の準備できてるから」
春樹はそう言い、早く着替えて来いと言われる。ベッドルームに行くと、ライオンがタオルケットにくるまって寝ていた。それを見てまたジーンとしてしまう。目頭が熱くなったり、鼻の奥がツンとする思いをして忙しい。
「寛人!まだ?」
「え?あ…今いく」と、春樹に声をかけ、青いミニカーとライオンを手にリビングに行くと碧と優の声が聞こえてきた。
「碧、優!ろっと帰ってきたよ〜。ほら、寛人、こっち!」
春樹のスマホの画面に碧と優が映っていて、春樹が呼びかけ手を振っている。
「碧!優!」とスマホに向かって、ほぼ叫び声を上げてしまったら、スマホの向こうで玲司が爆笑している声が聞こえた。姿は見えないが「切実な声!」と美桜も爆笑しながら言う声も聞こえた。
スマホに向かってミニカーとライオンを見せ、下野が「大切な物なのに…」と言うも、双子たちは通話が楽しいようでケラケラとずっと笑っていた。
美桜と玲司にお礼を言われ、また後ろ髪を引かれるようにしてビデオ通話を終えた。
「じゃあ、ご飯だな。寛人、大丈夫?」
「う、うん…春ちゃん、ご飯ありがとうね。作ってくれたんだな」
春樹が作ってくれた食事を下野は写真をバシャバシャと撮ると、春樹は「相変わらずだな」と少し呆れた顔をしていた。
久しぶりの二人きりの夜になる。
ベッドルームも、子供たちがいた賑やかな時とは比べものにならないほど静かだ。
「俺さ、自分の人生がこんなになるとは思わなかった。今が一番幸せだと感じる」
「俺もそうだ。寛人に会ってから今もずっと楽しくて幸せだ」
ベッドで春樹をぎゅーっと抱きしめる。
いつまでも真っ直ぐなこの人に会えて良かったなと感じる。
「双子たちもまた泊まりに来るってさ。美桜が出産する時は、頻繁にお願いするって言ってたし」
「任せてくれ!俺はこれからベビーシッターのプロフェッショナルになるから。玲司くんも仕事忙しいだろ?だから俺たちも協力しようぜ」
そう言うと、あはははと、声をあげて春樹は笑っていた。
「それと…今度の休みに引っ越しするよ。これから先、一緒に暮らして下さい。返事が遅くなってごめん」
「…えっ!あえっ!マジ…春ちゃん!」
いやったああ!と、大声を出してしまった。
自分の人生が、こんな幸福に転がるなんて思わなかった。神様は、何をしたらここまで幸せにしてくれたんだろうか。このままずっと今の幸せが続いてくれ。
「春ちゃん…よろしくお願いします。俺、幸せ過ぎてどうにかなりそう」
今日は本当に泣きそうになることが多い。
春樹に覆いかぶさり、唇にチュッと音を立ててキスをした。
「明日は仕事だけど、寝不足でもいい?」と言うと、春樹は「…お手柔らかにお願いします」と笑って頷いてくれた。
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