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第2話・闇の狩人。(1)

 あれほどまでに自分を欲し、淫らに喘いでいた赤い唇は今、固く閉ざされている。血液のように美しいルビー色の瞳は長い睫毛に覆われていた。  エイドリアンは快楽の涙を流した跡が残る頬をそっと撫で上げ、陶器のような滑らかな肌を手の甲で感じ取っていた。  ――時刻は午前二時を過ぎている。  静かな夜は未だ明けることなく、夏虫の羽音がただ静かに鳴っていた。  自分の隣で深い眠りに入っている美しすぎる彼と、欲望深い最も醜悪な怪物へとすっかり変わり果ててしまった自分を見比べ、失笑した。  鼻にかかった声が彼の唇から漏れる。彼が寝返りをうてば、ブランケットからしなやかな柔肌が現れた。両胸にあるツンと尖った果実のような胸の飾りには噛み跡がすっかり消えている。  あるのはただ、エイドリアンが残した愛撫の痕と、細い首筋に残ったままの、エイドリアンの所有物である証の牙の跡がふたつ。  ヴァンパイアは自分の所有物をけっして他のヴァンパイアに渡すことがないよう、こうして痕跡を残す。  エイドリアンはまさしく、だった。  もちろんはじめは彼自身もヴァンパイアではなかった。しかし人間でもない。  彼は人間が忌み嫌う闇の存在。悪魔。  それもその辺で徘徊している低俗な悪魔ではなく、冥府の王と呼ばれるハデス・プルートンの子。冥界のプリンスだった。けれどエイドリアンの母は正妻のベルセフォネではない。エイドリアンの母は取るに足らない一般の悪魔で、名はエメロンと言う。

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