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第8話
「じゃあ先生、私は帰るのでご友人と仲良くしてくださいよ?」
「え?」
電話で元気がなかったとか、そういう細かなところは気遣ってくれるのに、こういう状況への気遣いは全くない。
棗 さんは、自分が大きくやらかしてしまったことに気づいていないのか? と頭を抱えたけれど、そもそも私が彼女に甘えたことが今へと繋がっているのだから、彼女だけを責められない。
どうしてあんなふうに甘えてしまったのかと、ひどく後悔した。
「隆義 さん」
「へっ」
あっという間に去っていった棗 さんの背中を目で追うこともなく、言い訳じみたものにならない何か良い言葉はないかと、俯いたままで探していた私を、彼はきつく抱きしめた。
突然のことに驚くと同時に、彼女にもたれかかった時はさほど気にならなかった体臭や手入れのしていない髪や髭が、途端に気になり始める。
彼には、みっともない姿を見られてばかりだ。
「元気がなかったのって、もしかして俺のせいですか? 一ヶ月来なかったから寂しかったとか? そうだったのなら嬉しいんですけど」
「違っ」
「……違うんですか? 俺はあなたに会えなくて寂しかったですよ」
ぎゅうっとさらに力強く抱きしめられるのに比例して、私の心臓は握り潰されたように痛くなる。
今すぐ腕を離してこの息苦しさから解放してほしいのに、まだこのままでいてほしいとも思ってしまう。
どうしてこんなに忙しいのだろう。彼といるときに心が休まる瞬間がこれっぽっちもない。
ああ、胸が痛いし、うるさい。自分の鼓動でおかしくなりそうだ。
「隆義 さん、そういえばさっき、俺の名前を呼んでくれましたね」
「……っ」
「正直、しばらく会えなかったから名前を忘れられたらどうしようって思ってました。それに女性にもたれかかっているあなたを見て、すごくショックを受けたんですよ。彼女とはただの友人なんですか? 本当に何もないんですか……?」
「……思っているようなことは、何もないよ。彼女は唯一心を許せる友人なんだ」
棗 さんは仕事以外でも良くしてくれる。こんな面倒な私の相手をずっとしてくれるのは彼女しかいないだろう。
彼女の前の編集者さんとはうまく付き合えず短い期間でかえられることも多かったのに、彼女だけは違った。
「唯一……ですか。俺は、あなたが心を許せる友人にはなれませんか? あなたのこと、もっと知りたいです。彼女が呼んでいた先生という呼び名は何なのか。あなたがどんな仕事をしてどんな生活を送っているのか。教えてください。それから俺のことも知ってほしいです。駄目ですか?」
「……それ、は、」
「今日の夜、仕事終わりにここにもう一度来ます。俺と仲良くしたいと思っていただけるのなら、このドアを開けてください。これまで強引に色々話を進めてきたけれど、あなたが嫌なら無理に関わりません。嫌われたくないので。関わりたくなければ、インターホンが鳴っても出てこないで。今後はあなたの部屋に荷物を届ける以外にお邪魔したりはしません」
あれだけ強く抱きしめていたのに、そう言った彼はあっさりと私を解放した。
締め付けられる感覚がなくなり、一気に血液が回り始めるようだ。少しだけ、気持ち悪くてなる。
そんな私に気づくこともなく、では、と短く挨拶をして頭を下げた彼に思わず伸ばしそうになった手を、後ろへと隠した。
淡々と話し終えた彼に、なぜだか寂しさが募る。
ドアを開けなければそこで終わりだ。私宛の荷物なんて来ることはないだろうし、もう会えなくなると思うとひどく悲しくなった。
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