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第30話

 彼の言葉を嬉しいと思ってしまった私には、どのように断れば不自然ではないのかを考える余裕はない。  そんな私の返事を待たずに、彼は「今から行きます」と電話を切った。  彼がうちに来るまでは一時間ほどかかるだろう。それまで、どんな気持ちで待っていれば良いのか。  少し伸びたこの髭は剃る? そうすると来てくれることを楽しみにしていたと気づかれるだろうか。  ソファの毛玉を取っておいたほうが良いか? いやでも、今度新しいカバーを買いに行く話をしたことがあった気もする。じゃあ、何か飲み物を買っておくべきか? うちには水しかない。お茶? お酒? でもお酒を飲まない私の冷蔵庫にそれがあるのは不自然? 「ああ、どうしたら良いのだろうか」  そこまで広くない部屋を行ったり来たりしながら、まとまらない考えをどうにか整理しようとするものの、このままでは、何もせずにこの時間が過ぎてしまいそうだ。  せめて、部屋着はそれなりのものにしておこうか。 「……あっ、」  どうせすぐに脱がされてしまうかもしれないのに? とそんな考えがふと過り、引き出しから服を取り出していた手が止まった。 「はぁ、」  当たり前にこんなことを考えてしまうとは。別に来るたびに触られているわけでもないのに。  開けていた引き出しを戻し、それから立ち上がると洗面所へと向かった。鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。  少し伸びた髭も、長らく切っていないこの髪も、襟元がよれた服も、目尻の皺も、いまさらどうしようもなければ、何かを期待してかえるべきものでもない。   「まだまだ時間があるな」  何も取り繕わなければ十分に余裕があると、時計を見ながら計算をする。余計なことを一度でも考えてしまった頭をすっきりさせたくて、飲み物を買いに行くことにした。   すぐ近くではなく、さらに五分ほど先にあるコンビニでも良いだろう。    「飲み物と、お菓子でも買っておくか。テレビは見るだろうし」  玄関を出るて鍵を閉めると、強めの風が吹き抜けた。夕方になると一気に冷えてくるな、と思うものの、もう一度部屋に戻って上着を取りに行くのは面倒くさい。  エコバッグと財布、それだけあれば問題ないし、長居せずにすぐに戻ってこよう。  そんなことを考えながら、マンションの玄関を出てしばらく歩いていると、少し遠くでにゃあと猫の鳴き声がした。

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