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第58話
「隆義 さん!」
「弘明 、ちょっと待って! だって今日は、」
あの女性が彼を止めるような言葉かけをしているのを聞いて、もしかして追いかけてきてくれようとしたのかもしれないと思ったが、それを嬉しいと感じる心の余裕はなく、彼のほうを振り返らずに小走りで駅へと向かう。
話を遮りその場を去った時点で同じことではあるものの、彼の視界に入っている可能性のあるうちは、意地でも走りたくなかった。
商店街の角を曲がった途端、自分でも分からない何かが込み上げてきて、まだ自分にこんなに力があったのかと思うほどに全力で走った。
後ろからは荒い呼吸と棗 さんの「待って」と言う声が聞こえ、止まったほうが良いのかとの一瞬迷った間に彼女に追いつかれる。
腕を掴まれ無理やり止めさせられたのもあって、呼吸が一気に苦しくなり、膝も震え、その場に立っていることができずにへたり込んだ。
肩で息をしながら丸まった私のその背中を、彼女が優しく支える。
「先生、ごめんなさい。デートだなんて、余計なこと言って、ごめんね。モヤっとしちゃったんです」
何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、私の呼吸が落ち着き、返事ができるようになるまで待ってくれる。
少し落ち着いてきて顔を上げれば、眉を垂らして泣きそうな表情の棗 さんがいた。
「棗 さん、良いんだよ。私も全て聞けずに逃げて来ちゃったよ。彼女とどんな関係だろうが、そんなことはどうでも良くて、ただやはり、ああいう二人が自然に思えてしまったよ。あんなに心臓が潰れるように痛くなるんだと、自分でも驚いた。それほど衝撃を受けるくらい、あの二人がお似合いに見えたんだ。棗 さん、ごめんね。君が応援してくれて、私も頑張ろうと思ったけれど、それでも私みたいな者が彼の横にいたいと願うこと自体がおかしいんだよ。せっかく応援してくれたのにごめんね」
彼とあの女性を前にして話をしている間の、あの短い時間の中で、色んな思考が頭の中を巡り、胸を締め付け、混乱させられた。
その思いが溢れ出し、仕方のないことだと、期待したほうが悪いのだと、そういうふうに言葉にして言い聞かせなければ、自分を保っていられないような気がして、慎重な言葉選び、相手の理解、会話のテンポ、視線の合わせ方、あらゆる配慮を無視し、次々に言葉を並べた。
棗 さんに割り込ませないよう、全て話し尽くした。彼女が私のためを思って何かを言ってくれたとしても、それをありがとうと受け止めることができる余裕を、今はどうしても持つことができなかった。
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