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第59話
そんな私を見て、どのような言葉を伝えたら良いのか分からなくなったのだろう。棗 さんは黙って視線を合わせることしかしない。
私は立ち上がり、膝に付いた砂を払った。
「とりあえず今日は帰るよ、ありがとうね」
「先生……」
「数日休んだら、仕事はしっかりするから」
「先生、そんなことはどうでも良いから」
「仕事なのに、どうでも良いことはないだろう?」
「先生……!」
棗 さんが、引き留めようと私の腕を掴んだが、その手をやんわりと引き離す。
それじゃあ、と彼女から視線を逸らし、手を軽く左右に振ると、私はひとりで改札へと入った。
帰りの電車でも何の整理もつかないまま、マンションに戻ると、外出前と同じ場所にパッツンがいた。
私を見つけた瞬間に「ニャア」と鳴き、起き上がり近寄って来てくれる姿を見ると、まるで私の帰りを待っていてくれたのではないかと錯覚する。
けれど結局は私の勝手な期待であって、この猫が何を思っているのかは分からない。
私のためにこうしてくれているわけではなく、今日はたまたま誰かに甘えたい気分だったのかもしれないし、そもそもいつも私のもとへ来てくれるのも、偶然この猫の機嫌が良い日が重なっているだけなのかもしれない。
想像だけならいくらでも理想を押し付けられる。猫に対しても、人に対しても。
弘明 くんが私に会いに来てくれる時、優しく触れてくれる時、彼の色んな感情を、熱を、知ることができたと思っていたが、そうだとしてそれが彼の全てではないし、それすら私のものではなかったんだ。
私は彼とのこの関係を受け入れながらも、とにかく自分が傷つかないようにと、そればかりで精一杯だった。
遅かれ早かれこうなると分かっていたのに何の努力もしなかった人間には、このような結末がお似合いなのだろう。
「帰って来たら撫でてあげると言っていたのにごめんね。今はそんな気力がないんだ」
何かを察したのか足元に擦り寄ってくる。いつもより強めに頭を押しつけられ、裾に白い毛がたくさんついた。
以前に弘明 くんに、この猫との触れ合いを見られていた時の話を思い出す。あの話はどれも覚えているし、そんなふうに思ってもらえていたことが嬉しかったのに、今はその嬉しさよりも、どうしようもない負の感情が渦巻いている。
「ニャア」
「……ごめんね」
最後に頭だけを軽く撫で、私はエレベーターに乗り込んだ。
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