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「俺はもう行く」
ステュは耳を疑った。ディナイがシンに身を寄せ、ボソボソと耳打ちするのを呆然と眺めた。
「よろしく頼む」
今度は周りにも聞こえる声で言い、シンの肩を軽く叩くと、くるりと回れ右。ステュには目もくれないで玄関ホールを突っ切って、両開きの扉を抜け、大股で外へと出ていった。
「は!?」
ステュは慌てて後を追いかけた。
「まっ、待て待て、待って! そこの勇者止まれーーー!」
洋館の正面出入り口から鉄製の門扉まで続く、しっとりとしたバラ園が左右に広がる通路の途中で、ディナイは振り返る。
「人を泥棒みたいに呼び止めるな」
「ま……待って……もう行っちゃうの? どこ行くの? そもそも、何で連れてってくれないの?」
魔物を誘き寄せる餌になってもいい。餌になる前に絶対に助け出してくれるはずだから。
身の回りのお世話だってするし、荷物持ちも喜んで受け入れる。非力で重量制限はあるが。
(……あれ、このバラ、光ってる……?)
月明かりを浴びた白バラはほんのり光って見え……いや、本当に淡い光を帯びて、照明器具の代わりに辺りを照らしていた。
「今から船に乗って別の島へ向かう」
黒衣のディナイは今にも夜に同化しそうだった。
「こんな夜に? 危なくない?」
「最後に乗った船で聞いた。その島は魔物に襲撃されている。危険なのは百も承知だ」
「……どうして、そんなとこ行くの……」
「お前みたいな奴がいるかもしれない」
ステュは目を見開かせる。
胸の前で重ねた両手に、ぎゅっと力を込めた。
「お……俺も一緒に……」
ディナイは首を左右に振った。
「足手纏いだ」
ステュは絶句する。重たい岩を頭に乗っけられた気分で、もう「連れていって」なんて軽々しく口にすることができなくなった。
(その通り、足手纏いになるのは確実だ)
森で触手に襲われたとき、とても怖かった。荒野で「悪しき魔物」に遭遇したときも、恐怖の余り、卒倒しそうになった。
彼等は常に飢えていて、血生臭く、凶暴だ。人間を餌としか思っていない。できれば二度とお目にかかりたくない。
それなのに、どうして、魔物退治を使命にしている勇者のディナイについていきたいなんて思うのか――。
「シンが待ってるぞ」
ステュは、あたふたと振り返った。先程、自分が駆け降りてきたばかりの洋館前の石階段にシンが舞い降りていた。
(満月の夜に咲き誇る白百合の女王様……綺麗過ぎる……)
「あれっ」
視線を正面に戻せば、無言で立ち去ろうとしているディナイの背中にぶつかり、ステュは途方に暮れた。
(このまま、これっきり?)
常連なんだから、またいつか来てくれるだろうか? 近い内に会えるだろうか?
「あ! そうだ……! 待って、勇者様! これっ、これあげる!」
走ってディナイに追い着いたステュは、ドレスの胸元に詰め込んでいたソレを差し出した。
「はい!!」
「ゴミか」
「ひどッ、ち、違うもん。これね、村で一番綺麗だったもの。助けてもらったときに俺が被ってたやつ!」
「ああ、道理でな。魔物の体液がついてる」
「ッ……!」
ステュは声にならない悲鳴を上げる。ついつい放り投げたら、ディナイはすかさず空中でキャッチした。
ヒラヒラ、フワフワした、古めかしく儚げなベール。
束の間の幸せを閉じ込めることができそうな。
(魔物の染みがアレだけど、洗って落とせば質屋で何かと交換できるかも)
ディナイが恭しげな手つきで薄闇に広げたベールは、夜風にふわりとはためいた。
「花嫁衣裳か」
「俺を助けてくれたお礼にあげる」
広げたベールを丁寧に折り畳み、ロングコートの懐に仕舞うと、ディナイはステュの頭をポンと叩いた。
「じゃあな」
今度こそ勇者は行ってしまった。
次の誰かを助けるために。
「さよなら、またね、勇者様」
――かくして少年は勇者の妹が主人として君臨する娼館で働くことになった。
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