「あけおめ、こう」 「おう、あけおめ」 　東堂と年明けの挨拶をして、高校生活最後の三学期が始まった。受験を控える生徒が多い教室は、心地よい緊張感に包まれている。皆、挨拶をした後は早々にテキストを開いたり、冬季講習の話をしたりと受験一色だった。 　俺の席の前に、東堂が座る。 「はー、こうはもう合格決まってるからいいよな」 　東堂は頬杖をついて俺を恨めしそうに見る。一般入試組はここからが本番だ。 「ばーか、こちとら夏前から死に物狂いでやってたんだよ」 「存じてますう」 　東堂は唇を尖らせた。俺は推薦で合格したけど、東堂はこれから。ストレスやらプレッシャーやら、色々あるんだろう。 「こう、俺の合格決まったら遊んで？」 　東堂が上目遣いに俺を見た。何かお願いする時の東堂の常套手段だった。 　受験の時期やら鴫野とのことやら色々重なって、東堂とはしばらく遊んでいなかった。受験が終わったら、いいかもしれないと思った。 「はは、予定に入れとく」 「最近、長谷川とはあんま会わねーの？」 　無邪気に痛いところを突いてくれる。思わず苦い顔をしそうになった。ビンタをした一件の後、長谷川の姿を見かけはするけど、顔を合わせることはなかった。まあ、向こうも彼女がいて忙しいんだろう。 「あー、まぁな。あいつも受験だし」 　それとなく濁してしまった。 　間違っても長谷川に振られて二年の鴫野とよろしくやってますなんて言えない。 「受験終わったらさ、また三人で遊ぼうぜ」 「そうだな」 　誘ったら、長谷川は来るだろうか。何かしら理由をつけて来ないかもしれない。そしたら、東堂は拗ねるだろう。俺らより彼女が大事なのかよ、って。長谷川に彼女ができたことは、俺が言う前に何処かから聞いてきたらしかった。耳の早い東堂らしい、と思ったのを覚えている。 　そんなことを考えて、少し胸が痛んだ。 　はやく、この痛くて苦しい何かを、無くしたい。正直なところ、長谷川と顔を合わせるのは不安だ。もう吹っ切れたとは思うけど、まだたまに思い出して胸が痛む。 　鴫野に会いたい。 　そんなことを考えているうちに、予鈴が鳴った。 　放課後になった。 　上書き作業の始まりだ。今日やると、鴫野には先に言ってあった。 　残っているチャンスはそんなにない。来月には三年は自宅待機になってしまう。そうなると、もう上書きどころじゃない。だから、俺はとりあえず優先順位をつけた。今のところ、一番優先度が高いのはバスケ部部室。部室には、何かと思い出が多い。だから、早くやっつけておきたかった。 　屋上手前のあの場所は、一旦置いておく。この時期は寒いから。 「お待たせ」 　鴫野はいつもの場所で待っていた。掃除当番だったから少し待たせてしまったせいで、退屈そうにスマートフォンを弄っている。けど、声をかけると鴫野は笑った。 「悪い、掃除当番だったの忘れてた」 「大丈夫っすよ」 　廊下で待っていた鴫野を捕まえて、部室棟へ向かいながら遠回りして少し時間を潰す。 　校則だから仕方ないかと、髭の無い鴫野はなんだか物足りない。そんな俺の不躾な視線に気付いたのか、鴫野は苦笑いする。 「こっちが通常の仕様っすよ」 「知ってるよ」 　バレてる。でもそれが可笑しくて、笑った。 　鴫野が俺のことをわかってるんだなっていう実感が湧いてきて、くすぐったい。 「今日は何処なんすか」 「バスケ部の部室」 「マジか……」 　絶望感を滲ませた鴫野の声がした。 　そんな鴫野を叱咤するべく、俺は鴫野の尻を叩いた。 「ほら、行くぞ」 「本当に行くんすか」 　心なしか声が硬い。緊張してるみたいだ。無理もない。不法侵入みたいなもんだもんな。付き合わせることに引け目を感じはする。 「当たり前だろ」 　小さく、鴫野のため息が聞こえた。 　気乗りしなさそうな鴫野の手を引いて、バスケ部の部室に向かった。 　日がだいぶ西に傾いた夕方、皆部活動を始めている時間帯になって、人気のない部室棟は薄暗い。明かりもつけなければ尚更だ。別に本当に探し物がある訳じゃないから、明かりをつけるつもりはなかった。 　部室の引き戸は簡単に開いた。ロッカーは各自で鍵を管理するから、この時間なら部室には簡単に入れる。 　部活が始まった時間を過ぎると、そうそうここに来る奴はいない。 　何度も、人目を盗んで長谷川に抱きしめてもらったから知っている。 　部屋に満ちた汗と埃と、制汗スプレーの匂いと、匂いから呼び起こされる甘い記憶。懐かしさと、そこに焼き付いた思い出に少しだけ胸が痛む。 　それを容易く塗りつぶしていくのは、人の目を盗んで、学校でいけないことをしているという背徳感と、それが齎す甘い痺れのような感覚だった。 「お前、運動部の部室は初めて？」 「はい」 「ほら、さっさとやるぞ」 「っす」 　俺のロッカーは、一番奥にある。 　鴫野の手を引いて、俺のロッカー前までやってきた。引退した時のまま残されているロッカーの金属の扉には、変わらず俺の名前が書いてあった。 　ここで長谷川としたのは、ハグだけ。 　でも、それには続きがある。ここでのハグに満足していたのは最初だけ。ここではハグ以上のことはしていないけど、それはすぐに、キスになってセックスになって、俺と長谷川がセフレになるのにそんなに時間はかからなかった。それからは、俺の家だったり、長谷川の家だったり、たまに、学校だったり。長谷川とするのは、すごく好きだった。時々名前を呼ばれて、めちゃくちゃ嬉しかった。嬉しくて、付き合ったら、こんなふうなんだろうなと思った。結局それは、現実になることはなかったけど。 「鴫野」 　胸に生まれた苦い気持ちを振り切るように鴫野を呼ぶと、喉をこくりと鳴らして鴫野が俺を見た。顔を見ただけで緊張しているのがわかる。不安そうに視線を彷徨わせて、時々俺を見る。 「な、キスだけ」 　正面から鴫野の腰に腕を回す。 　濃くなる体温と鴫野の匂いに、俺は脳が溶け出すみたいな甘くて熱い多幸感に包まれる。 　抱きしめられて体温が感じられたらよかったあの頃よりも、俺はだいぶ強欲になった。 　欲情に塗れた視線を送ってねだる俺に、鴫野は渋々応じてくれた。 　躊躇いがちに唇が重なる。 　触れるだけの唇が焦ったくて、鴫野のうなじに手をかけて深く重ねてやると、くぐもった声が上がった。 　それだけじゃ全然足りなくて、舌を捩じ込んで、鴫野の縮こまった舌を絡め取る。 　けど、鴫野は全然乗ってこなかった。 　全然物足りない。もっと、食らいつくみたいにしてほしいのに。 　唇を離すと、鴫野の赤くなった顔が見えた。 「先輩」 　鴫野は言いながら俺を抱きしめた。 「なんだよ」 「反則、すよ」 　耳元で、掠れた呻きのような鴫野の声がした。腕の中に収まっていると鴫野の匂いが濃くて、鴫野の匂いが記憶を上書きしていく。 　満たされる。 　満たされるのに、貪欲な俺は。 「フェラもする？」 「～～ッ、それ、見られたら終わるやつ」 　鴫野は両手で顔を覆った。乙女かよ。 「見られなきゃいいだろ。この時間は誰も来ねーよ」 「あんた、他の奴の匂いがするところでする気ですか」 　顔を覆っていた手を下げて、鴫野がじとりとした目で俺を睨む。 　他の奴の匂い、ね。確かに。言いたいことはわかる。そういうところ、鴫野は割と繊細だ。 「俺の部屋でして」 　眉を八の字にして、鴫野は拗ねたみたいな声でストレートに欲望を口にする。そうやって独占欲を見せられるのは嫌な気分じゃなかった。 　鴫野の独占欲が垣間見える瞬間、俺の心は甘く満たされる。 「じゃ、行くか」 　俺の望む続きは、ここより、安全な場所でした方が良さそうだ。ここで続行することを諦めた俺を見てほっとしたのか、鴫野の表情が柔らかくなった。 「記念写真撮るか？」 「や、いいっす。早く行きましょ」 　一刻も早くこここら出て行きたいみたいで、居心地悪そうに俺を急かす鴫野は可愛かった。