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第44話 三月某日【卒業式、サボってあの場所で】鴫野

 卒業式がついにやってきてしまった。  三年生最後のイベント。在校生にも、まあ大きなイベントだ。俺の所属する写真部からは二人、撮影係をさせられるのが恒例になっていた。  今年は部長の俺と、副部長の森下が抜擢された。森下は一年の時からの付き合いで気心が知れた仲だ。カメラオタクの男子、といった感じだけど写真も上手い。人物を撮るのは正直俺よりも上手いと思う。  新部長としての初仕事。新しいカメラであわよくば先輩の良い写真を撮ってやろうという気でいた。  そんな腹づもりでやってきた卒業の体育館には、式典特有のかしこまった空気が流れていた。まだ朝の冷たさの残る体育館。学ランの袖には撮影係の腕章。  身の引き締まる思いで俺は在校生席とは別に用意されたパイプ椅子に座っていた。  それなのに。俺の意気込みを嘲笑うかのような、とんでもないものを見つけてしまった。  よりにもよって、先輩が体育館を抜け出すところだった。  それを見つけたのは偶然だ。偶々、視界の隅に映る動くものを目で追ったら、先輩だった。  見間違いなんかじゃなかった。具合が悪くて、保健室に行くだけかもしれない。トイレに行くだけかもしれない。そうは思ったけど、俺の胸には、一つの予感めいたものがあった。 「ごめん、ちょっと、トイレ」  そんな適当な嘘をついてカメラを隣にいた副部長の森下に渡すと、俺は先輩の後を追った。  誰もいない校内。念のため覗いた保健室にはやはり誰もいなくて、そうなると俺の中に残る候補は一つだけだった。  俺と先輩の思い出の場所。  物置みたいな、立入禁止のあの場所だ。  俺は足音を殺して階段を上る。一階から四階まで上がって、さらにもう一階分なので、流石にちょっとしんどかった。上がる息を押し殺して、一歩ずつ階段を踏み締める。  昼前の眩しい光の満ちた塔屋の中は白い光で溢れていて、なんだか神聖な場所みたいに思えた。  階段を上り切って覗き込んだ資材置き場には、退屈そうに座り込んだ先輩の姿があった。  何をするでもなく、ぼんやりと視線を虚空に投げた横顔は気怠げで、今ここにカメラがないことが悔やまれるくらい綺麗だった。  そんな横顔を崩してしまうのを惜しいと思いながらも、俺は声をかけた。 「何してるんすか。主役なのに」  先輩が弾かれたみたいにこちらを見た。  目を見開いた驚きの表情は、俺を見つけるとすぐに笑みに変わる。 「腹痛いって抜けてきた」  先輩は悪戯ぽく笑う。 「お前も、なんで来ちゃったの、部長」  先輩にそう呼ばれるとなんだかくすぐったい。なんでと言われたら、先輩の姿が見えたからとしか言えない。他に理由なんてなかった。強いて言うなら、先輩がここに行きそうな気がしたからだ。 「先輩が、抜けるの見えたから、なんとなく」  俺が正直に言うと、先輩は少しだけ身体を奥にずらす。先輩の隣に、俺が入れそうなスペースが空く。 「来いよ」  どうやら隣に座れということらしく、先輩はスペースの空いた隣を叩いてみせた。  俺は素直にそこに座る。隣にいる先輩のシャンプーの匂いがした。  ここに先輩と来るのは、初めて会った翌日以来だ。あれから色々あって、先輩とこうやって付き合うことになって、なんだか不思議な感じだった。  それでも未だに、俺の脳裏にはあの日の先輩の姿が鮮やかに焼き付いている。一年の俺が見た、先輩と誰かの秘密の時間。もう、相手が誰だとか、そんなことはどうでもよかった。  今、先輩の隣にいるのは俺で、触れられるのも俺だけ。今この瞬間、先輩を独占しているのは、俺だ。 「先輩、俺、あんなこと言いましたけど」  俺の口からは勝手に言葉が出ていた。  手を伸ばして、身体の横に置かれた先輩の指先に触れる。  先輩の手は逃げない。俺はその手をそっと握った。先輩の手は、あったかい。  塔屋の中は静かで、俺の胸で鳴り響く心臓ばかりが煩かった。 「ここだけはちゃんと、俺で上書きしたい」  俺は隣の先輩を、真っ直ぐに見た。  上書きなんてやめようと言った口で、ここだけは上書きしたいなんて宣う俺を、先輩は許してくれるだろうか。  怒られても構わない。これは、俺のエゴだ。小さくて汚い、独占欲からくるものだった。  視線がぶつかると、先輩は呆けたような、驚いたような顔で俺を見ていた。  心臓は、もう少しで爆発するんじゃないかというくらいに煩い。 「だめ、すか」  このまま抱きしめることだってできるのに、俺は伺いを立てる。この人が望まないことはしたくない。だけど、望んでくれるならなんだってしたい。喜んでくれるなら、笑ってくれるなら、なんでもしたい。  先輩を縋るような目で見てしまう。  震える俺の手を、先輩のあったかい手が握り返した。 「ダメなわけ、ねーだろ」  先輩は、目を細めて笑った。俺を挑発する時の顔だった。 「美紀孝」  やけにはっきりと名前を呼ばれる。学校でそうやって呼ばれると、なんだかいけないことをしているみたいで、ひどく興奮してしまう。 「お前が来てくれると思ってなかったから、すげー嬉しい」  先輩は泣きそうな顔で笑った。その顔があまりに好きで、心臓が痛いくらいに脈打った。 「しようぜ」  先輩にそんなこと言われたら、俺はもう逃げられない。引き返せない。たったそれだけの言葉で、先輩は俺の手綱をしっかりと握っていた。  戻らなきゃと考えていたのに、こんな先輩を前にしたらそんなのどうでもよくなってしまった。  俺は力いっぱい先輩を抱き寄せて、先輩を腕の中に閉じ込めた。先輩の身体があったかい。うっすら鼓動が聞こえる気がする。きっと俺の煩い心臓の音も先輩に聴かれている。かっこ悪いとわかっているけど、それでもよかった。  俺の全部を知ってほしい。弱いところも汚いところも、どうしようもないところも。全部受け止めなくていいから、俺を知ってほしいと思った。 「キスしていいすか」  俺からのお伺いに、顔は見えないけど、先輩は腕の中で笑った気がした。 「いちいち訊くなって。いいよ」  お許しが出たので、俺は抱きしめる腕を緩めて、手のひらで頬に触れた。  見上げる先輩と視線が合うと、先輩は薄く笑って目を伏せる。  先輩の笑みの形の唇に、唇を押し当てる。  そうやって唇に触れたら、もう止められなかった。  柔らかくて溶けそうな先輩の唇を優しく齧って、吸って、舐めて。  揶揄うように差し込まれた舌先を絡め取って、それも吸って。  ずっと先輩の味がしていた。  眩い光の中、先輩と密やかに交わすキスはどうしようもなく美味しくて、ずっとこのままでいたいと思う。食い合うみたいに舌を絡ませ、唇に甘く歯を立てて。どうしてこんなに美味しいんだろうと思いながら、先輩の温かな粘膜を味わった。  不意に、先輩の手が俺の胸を優しく叩いた。  そっと口を離すと、先輩は顔を赤くして俺を睨む。 「……長えよ」  悪態をつく唇は赤い血の色を映して濡れて、腫れたみたいに見えた。 「すんません」  謝ると、先輩は笑って顔を近付けた。 「いいけど。なあ、続き」  甘えるみたいな声と一緒に、俺の唇に、先輩の唇から漏れた湿った吐息が触れる。 「準備、してあるから、しろよ」  先輩の低く甘い声が響く。それは俺を誘うためのものだとはっきりわかる。はっきりと、俺に対して、欲を滲ませた声だ。  そんなもの聞かされて、俺が平気でいられるわけもない。 「あんた、ほんと、それ……」 「反則、だろ?」  全部お見通しな先輩の笑みも、もはや俺を煽るためのものでしかなくて、俺ははしたなく喉を鳴らした。

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