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第七話

 翌日、エリオットが朝食を持ってやって来た。 「昨日は、大変な事になりましたね」  エリオットは、開口一番そう言った。 「それにしても、助けて(もら)えて良かったです。社長に怒られずにすみました」  クリスは食欲がないので、パンを手に取ったはいいが食べる気になれず、手元を見つめたままぼんやりとしている。 「けど、やっぱりジュースなんて買いに行かない方が良かったんですよ。なんで、何も言わずに行ったんですか?」  エリオットは、まるでクリスを詰問(きつもん)するような調子で言った。  しかし、そもそもの原因を作ったのはエリオットで、クリスはその所為(せい)で酷い目にあっている。  クリスは何も言わずにいようと考えていたが、思わず口からこぼれてしまう。 「でも、僕も大変だったんだ。あの時、男に拉致(らち)されて……」 「拉致?」 「うん」  それを聞いて、エリオットの顔がみるみる青ざめていく。 「やっぱりあの時、私が見ていれば……」  エリオットは、クリスが自分を逃がしてくれたいう事に、全く気付いていないようだった。  それでも、クリスはエリオットの事を大切に思っているから、訂正しようとは思わない。  ただ、認識の差こそあれ、あの時の秘密を共有出来るのはエリオットだけだ。  昨日の今日で、クリスも疲れているところに、責められるような態度を取られるのは流石(さすが)につらい。  だから、クリスは、ただ少しだけ愚痴を聞いて欲しかった。 「会社に連れて行かれて、暴行されて……」  しかし、エリオットはその内容を聞くうちにつらそうな顔になっていく。 「そんなつらい事は、もう話さなくていいです」  エリオットは自分から遠ざけるように、クリスの肩に手をかけた。 『自分が罪の意識に(さいな)まれるから、それ以上は話さないでください』  クリスには、エリオットがそう言っているように聞こえた。  その時、クリスの心の中で、何かが壊れた。 「出て行って」  クリスは肩に乗せられた手を払うと、消え入りそうな声で告げた。 「なんて言ったんです?」  クリスは(うつむ)いたままで扉を指さした。 「今すぐ出て行って!」  エリオットを追い出すと、クリスはダグラスに電話をかけた。  一コール  二コール  三コール……  しばらく呼出音を聞いていたが出る気配がない。  諦めてそろそろ電話を切ろうとした時、ダグラスの声が受話器の向こうから聞こえた。 『どうした?』 「部屋に来て欲しいんです」 『すぐ行く』  クリスは電話を切ると、そのまま床に座り込んだ。  その時、ダグラスは得意先の社長と商談をしていた。  あらかた仕事の話が終わり、相手と世間話をしていると、ダグラスのプライベートの電話が鳴った。  着信はクリスからだった。  クリスに番号を教えてはいたが、今まで一度もかけて来た事がなかったので、ダグラスは少し驚いた。 「どうした?」 『部屋に来て欲しいんです』 「すぐ行く」  ダグラスは即答して電話を切った。  電話口のクリスの様子は、明らかにおかしい。  そもそも、クリスはダグラス相手でも敬語を使った事などなかったのだ。 「すみません。急用が出来てしまったので、これで失礼させて貰います」 「ああ、気にしないでください。また一緒に食事でもしましょう」  ダグラスはクリスの部屋に急いだ。  思えば、昨日からクリスの態度はおかしかったのだ。 「私だ。入るぞ」  声をかけると、返事を待たずに扉を開けた。  部屋ではクリスが床にへたりこんで俯いている。 「どうした?」  しゃがみこんで尋ねると、クリスはダグラスの服を掴んだ。 「昨日の事、聞いて貰えますか?」  クリスは俯いたまま言った。 「聞こう。話してくれ」  ダグラスは話を聞いている間中、エリオットへの怒りを抑えるのに必死だった。  話を聞き終えると、ダグラスはクリスの頭を抱きしめる。 「ちょっと、エリオットの所に行って来る」  クリスは、離そうとするダグラスの手を掴んだ。 「そばにいて欲しいんです」 「ちょっとだけ待っていてくれ。すぐ戻って来る」  そして、ダグラスは部屋を出て行った。  ダグラスが部屋を出ると、すぐ近くにエリオットがいた。 「ちょっと来い!」  声を荒げてそう言うと、ダグラスはエリオットの襟首(えりくび)を掴んで、すごい勢いで引きずって行く。  ダグラスは厳しい人間だが、激昂したりする事は今まで一度もなかった。  警備員はその様子に驚いて、どうしていいか分からずに無言でその背中を見ていたが、我に返ると、慌ててダグラスの後を追った。  ダグラスは部屋に入ると、エリオットを壁に叩きつけた。 「クリスから全て聞いた。言う事はあるか?」  怒りを押し殺した声で、ダグラスが言う。 「悪い事をしたと思っています。本当にすみませんでした」  エリオットは、真っ青な顔をしてすくみ上がっている。 「クリスは、禁止されている外出をした事について、お前をかばっているから何も言えなかったのを理解しているか?」 「それは……」 「秘密を話せるのがお前しかいないから、話を聞いて貰おうとしていた事に気付いているか?」 「聞いたけれども、つらい話だから、最後まで話さなくていいと……」 「その内容がつらかったのはお前か? クリスか?」 「クリスです」  ダグラスはエリオットの横の壁を殴った。 「お前だろう! 自分が傷つきたくないから逃げたんだろう!」  エリオットは、なにがなんだか分からずに怯えていた。 「ここにクリスを連れて来た時もそうだ。目の前で人が死ぬのが耐えられなかっただけだろう! その後なにがあるか考えもしなかったんだろう!」  ダグラスはエリオットの胸ぐらを掴んだ。 「お前が連れ出して危険な目に合わせておいて、自分は悪くないと思っているのか! クリスがお前に買い物を頼んだから、クリスが勝手に何処(どこ)かへ行ったから、だからクリスがこんな目にあったと本気で思っているのか? 買い物を頼んだのはお前を逃がす為だったとどうして気付かない!」  実際はこうだ。  二人で逃げるのは厳しいが一人ならば逃げられる可能性が高い為、クリスはエリオットを逃がした。  クリスもその段階なら一人で逃げられたかも知れないが、エリオットが捕まればクリスの事も含めて情報を全て吐いてから殺されるのが確定しているから、置き去りにする事は出来ない。  二人とも捕まるとエリオットが情報を吐くだろうからクリスの事がバレて、最悪の事態になる可能性が高い。  ならば、選択肢は一つしかない。  クリスが一人で捕まる事だ。 「そんな事は言われなくても想像すれば分かる事だ!」  クリスに助けられた事にも気付かず、はぐれたのは自分の所為ではないと思い込み、クリスが助けを求めている時にはそれを受け入れるのを拒み、自分は傷つかずに安全な所にいる。 「自分だけ安全な所にいて、一緒に傷つく覚悟もないのなら、中途半端に他人の人生に関わるな」  ダグラスは、そこまでまくし立てるように言うと、エリオットを掴んでいた手を離した。  エリオットは、壁に背中をつけたまま、ずるずると床に崩れ落ちる。 「お前はクビだ。だが、お前が世話をしていたクリスは我社の最重要機密だ。秘密を知っているお前をこのまま生かしておく訳にはいかない」  ダグラスは、銃を取り出し、それをエリオットに差し出す。 「せめて自分の人生くらいは、自分で責任を取れ」  エリオットは、ダグラスの顔と銃を交互に見つめると、震える手で銃を受け取った。  そして、目をかたく閉じて、震える手で引き金を引いた。  部屋に乾いた銃声が響き、それを聞きつけた警備員が、慌てて部屋に入って来た。 「どうしました?」  警備員が尋ねると、ダグラスは、視線をエリオットの死体に向け一言告げる。 「片付けておけ」  ダグラスはそれだけ言うと、床に落ちた銃を拾い、足早に部屋を出た。  その後すぐ、ダグラスは、クリスのいる部屋に戻った。  クリスは、最初の位置から微動だにしていない。 「エリオットは死んだ」 「そう……。お願いがあるんですが、聞いて貰えますか?」  電話をかけて来て以来、クリスはずっと敬語で話している。  理由は分からないが、酷く衰弱しているのは見て取れた。 「言ってみろ」  クリスは、何かを噛み締めるように声を(しぼ)り出した。 「僕を抱いて欲しいんです」  ダグラスは、何を言われたのか一瞬分からなかった。  どうしたらいいか分からず、かがみこんでクリスの頭を抱きしめた。 「これでいいのか?」 「違います。そういう意味じゃありません」  クリスは、性的な意味で自分を抱けと言っていた。  しかし、ダグラスはクリスに性的な感情を抱いた事など一度もない。  ましてや、十二歳の少年となど考えた事もなかった。  おまけに、クリスは強姦されて怪我をしている筈だ。 『自分だけ安全な所にいて、一緒に傷つく覚悟もないのなら、中途半端に他人の人生に関わるな』  エリオットに告げた自分の言葉が胸を刺す。  ならば、何処までも付き合ってやろうと、ダグラスは思った。 「覚悟はいいか?」  それは、ダグラスが自分自身に対して言った言葉かも知れない。 「ありがとう」  ダグラスは、クリスを抱き上げると、優しくベッドに寝かせた。  クリスの体には、たくさんの痣が出来ていて、本当にぼろぼろだった。  とても、こんな事を出来るような状態ではなかった。  ダグラスは強姦しているような嫌な気分になり、何度途中でやめようと思ったか知れない。  それでも、なんとか最後まで終えると、ダグラスはクリスに尋ねた。 「なんで自分を痛めつけるような事をするんだ」  クリスは、言葉を探すように黙っていたが、しばらくして口を開いた。 「こうする以外に、自分を現実に繋ぎ止めておく方法を思いつかなかったから」  おそらく、クリスは涙を流さずに泣いていたのだろう。 「でも、誰に言ってもきっと断られると思ってた。だから社長がお願いを聞いてくれて本当に嬉しかった。ありがとう」  ダグラスは、クリスを抱き寄せた。

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