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第九話

 クリスは、医務室からダグラスの部屋に移動になった。  まだ高熱があるので、日中は点滴をつけたままだが、医務室にいる時よりは、落ち着く事が出来る。  しかし、クリスは点滴の数を数える事も早々に飽きてしまい、何もする事がなくなった。  クリスは、ただ一人で静かな空間にいると、ダグラスの事が頭に浮かんで来る。  レイは、ダグラスは責任を取るだろうから問題ないと言っていた。  実際、ダグラスはここ数日忙しい仕事の合間を()ってまで、クリスに会いに来てくれている。  それは、部下として心配していると言う事もあるだろうが、それだけでない事はクリスにも分かった。  そして、そこにあるのは下心ではなく、純粋に責任感のみだ。  しかし、クリスは、この関係を強いたのは自分の方で、それについてダグラスが責任を感じる必要はないと思っている。  抱いてくれと言った時も、ただ、側にいたのがダグラスだったと言うだけで、相手は誰でも良かったのだ。  クリスがその事を告げれば、また仕事だけの関係に戻るに違いない。  恩人であるダグラスを苦しめない為にも、本当の事を言うべきだと分かってはいるが、クリスにはどうしても出来なかった。 『社長は優しかったんだ』  それは、クリスがはじめて触れた、打算のない優しさだった。  自分から、それを手放す事などクリスに出来る筈もなかった。  クリスが考えていると、ダグラスが昼食のお膳を持ってやって来た。 「具合はどうだ?」  ダグラスは尋ねながら、お膳をサイドテーブルに置く。 「大分いいよ。ありがとう」  クリスは答えると、ベッドから上半身だけ起こす。  すると、ダグラスは、心配そうにクリスの額に手を当てた。 「熱はどうだ? 触った感じでは、まだ高そうだが」 「朝は三十九度二分だった」  クリスは、看護師から聞かされた体温を告げた。 「なかなか下がらないな」  ダグラスはそう言って、ベッドサイドの椅子に腰掛ける。  クリスは、ベッドの端に腰掛け、食器を手にとった。 「熱はいいんだけど、何もする事がなくて退屈なんだ。社長、せめて仕事でも持って来てよ」  不服そうに告げるクリスに、ダグラスは呆れたように言う。 「今は休め。それが仕事だ」 「つらい仕事だ」  クリスは、そう言って顔をしかめた。  ダグラスは、それを見て口元を綻ばせる。  それから、クリスを宥めるように、さっき決まったばかりの事を告げた。 「そう言えば、今日、機材の搬入が出来る事になったぞ」  クリスは熱い雑炊(ぞうすい)をかき混ぜていた手を止めた。 「作業をしている間、一旦、別室に移って(もら)う事になる。食事をすませたら移動しよう」 「分かった」  クリスは返事をすると、雑炊を急いでかきこみ始める。  ダグラスは、それを目を細めて見つめた。  ダグラスが仕事を終えたのは、二十一時を少し回った頃だった。  部屋の扉を開けると、室内には雑多な音が流れていた。  見ると、クリスは部屋の端に立って、銃をシミュレーターに向けている。  発射音が六回鳴った。  全弾命中だ。  まだ、熱がある所為(せい)で少し体がふらついているが、全く問題はないらしい。  ダグラスは、その精度にため息しか出ない。  驚きのあまり声をかけそびれていると、クリスの方から挨拶をして来た。 「おかえり」  笑顔で振り向くクリスに、ダグラスもつられて笑みを浮かべる。 「ただいま。遊んでもいいが、無理はするなよ」  ダグラスは、そう言いながら、上着を脱いでネクタイを外す。 「だが、まあ。楽しんでいるみたいで良かった」  クリスは笑顔のまま、銃を定位置に戻すと、別の筐体(きょうたい)を指さした。 「戦術シミュレーションがあるんだ。やろうよ?」 「は?」  ダグラスは、思わず間抜けな声を出してしまう。 「だって、他は一人で出来るけど、これは一人じゃ面白くないんだもの。それに、どうせネット対戦もしちゃいけないんだろうし」  言われてみれば、その通りである。  しかし、ダグラスはクリス相手に頭脳ゲームで勝てるとは思えなかった。 「やろうよ?」  ダグラスは、気が進まなかったが、押しに負けて、クリスと一回だけ対戦する事にした。  結果は、惨敗だった。  ダグラスは、また対戦を申し込まれる事がないように、戦術ゲームを早いうちに部屋から撤去しようと心に決めた。 「遅いからもう寝よう」  ダグラスは、誤魔化すように言って、クリスをベッドに戻らせた。  そして、クリスの教師達の言葉を思い出す。 『クリスは天才です』  ダグラスは、目の前にいる少年の才能に改めて気付かされた。  きっと、どのシミュレーターをやっても、ただの一度もクリスに勝つ事は出来ないだろう。 『もう二度と、ここから出す訳にはいかないな』  それは、クリスの為であると同時に、会社の為でもあった。

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