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第十六話

 ダグラスはあの後、無理して傷が開いた為、また病院に戻る事となった。  しかし、病室にいても、クリスの事ばかり考えてしまう。  クリスは、会社に戻っては来たが、とても無事と言える状態ではなかった。  体中ひどい怪我で、内臓にこそ異常がなかったものの、肋骨にはヒビが入っていたらしい。  その上、クリスは強姦(ごうかん)までされていたと言う話だ。  クリスの身の安全を考えて社内の医務室に運んだが、本来ならばダグラスよりもクリスの方が入院すべき状態なのだ。 『とにかく早く戻らなければ』  ダグラスは、もどかしい気持ちでいっぱいだった。  その頃、クリスは、酸素マスクをつけてベッドの上に横たわっていた。  他にも、バイタル測定機や点滴など色々な物に繋がれている。  会社に着いた安心感からか、クリスは医務室に着くとすぐ意識を失った。  その後も軽い意識混濁(こんだく)状態が続いている。 「これ、苦しい」  クリスは、意識が戻ると、酸素マスクを外してしまう。 「酸素濃度が正常に戻るまでは我慢してください」  そう言って、看護師が酸素マスクを戻す。 「早く部屋に戻りたい。ここ、嫌だ」 「我慢してください。まだ帰れる状態ではありません」 「(つば)つけとけば治るよ」 「治りません」 「社長は今どうしてるの?」 「まだ入院中です」 「そっか」  そう言うと、クリスはまた眠りについた。  しかし、眠ると必ずうなされて苦しそうに声を出す。 「たすけ……て」  クリスが、医務室に運ばれて来るのは二度目の事だ。  以前も、レイプされて酷い状態で運ばれて来たが、今回はその比ではなかった。  クリスの主治医――マイケル・スリングには、会社の事情もクリスの立場も分からないが、どんな事情であれ、十二歳の子供をこんな酷い状態に追い込むなど到底許される事ではなかった。  クリスは、社長の愛人という噂もある。  マイケルは、それがこの件となにか関係があるのではないかと考えていた。  そうでなければ、こんな子供が代理業社にいる事自体おかしいのだ。  以前、医務室から社長の寝室に移動になった事もあり、噂の信憑性(しんぴょうせい)は高いと思われた。  それに、クリスは幼いながらも、とても美しい容貌をしていた。  マイケルは、うなされるクリスの手を握って、その寝顔を見つめる。  長いまつ毛も、白い肌も、艶やかな黒髪も、全てが美しかった。  マイケルが、そうやって見つめていると、クリスが目を開けた。  クリスは、ぼんやりとした目で、ベッドサイドのマイケルを見る。  そして、自分の手を見ると、握っているマイケルの手を払った。 「治療以外で触らないで」  そう言って、クリスはまた眠りに落ちた。  一方、ダグラスは、クリスの状態が、それ程悪いとは聞かされていなかった。  もし知っていたら、ダグラスは、どんな手段を使ってでも会社に帰っていたに違いない。 「社長、お加減は如何(いかが)ですか?」  会社の仕事が一段落したらしく、チェスターが業務報告の(ため)にダグラスの病室を訪れた。 「私は大丈夫だが、クリスの様子はどうだ?」  ダグラスに尋ねられ、チェスターは思わず目を()らした。 「疲れていたんでしょう。今は寝ている事が多いみたいです」  ダグラスは、チェスターの態度に怪訝な顔をする。 「そんなに悪いのか?」 「クリスはこちらで治療していますので大丈夫です。社長はご自身の体の事だけお考えください」  ダグラスは、思うようにならない事がもどかしかった。  クリスがダグラスの為に早く帰って来たのは間違いない。  あの時、クリスが拉致(らち)されて会社にいないと知れたら、H国がダグラス暗殺に動く可能性が考えられた。  クリスも、真っ先にそれを考えた事だろう。  だから、クリスには、早急に生きて会社に戻る必要があったのだ。  そうでなければ、こんな短期間で無理をしてまで帰って来る必要などなかった(はず)だ。  しかし、どうやって単身で帰る事が出来たのかは、ダグラスにも全く想像がつかなかった。  会社にいる、そのような仕事のエキスパートであったとしても、こんな芸当が出来る者などいないだろう。  そんな事を考え出したら、ダグラスはいてもたってもいられなくなった。 「もう入院している程の怪我ではない筈だ。すぐに社に戻る」  ダグラスは、押し留めるチェスターを振り切って、ベッドから起き上がった。  あれから数日経ち、クリスの意識はだいぶしっかりして来た。  酸素マスクも外れ、バイタルも安定して来ている。  まだ寝たきりではあるが、ベッドから上半身だけ起こせるようになった。 「マイク、水()んで来て」  クリスがコップを指差す。 「ちょっと待っててください」  マイケルは、ウォーターサーバーの水を()ぎ、クリスに手渡した。 「ありがとうマイク」  コップを受け取ると、クリスはちびちびと水を飲む。  クリスは、ベッドから起き上がれないので仕方がないのだが、よくマイケルに指示を出した。  看護師がいる時もそうなので、マイケルは苦笑せざるを得ない。 「(うやま)えとは言いませんが、私の事をちゃんと医者として見ていますか?」  クリスは、水を飲みながら、マイケルを横目に見る。 「名前で呼ばれるのも悪い気はしませんが、たまには『先生』と呼んでくれてもバチは当たらないと思いますよ」  冗談で告げたマイケルの言葉に、クリスは不快感を露にした。 「僕は他人の寝顔を変な目見ていた人を医者とは認めないし、それに、僕の『先生』はこの世に一人きりだ。そして、それは、あなたじゃない」  クリスはそう言って、真っ直ぐにマイケルを見た。 「すみません」  マイケルは自分の行動がバレていた事に動揺し、バツ悪そうに謝った。 「今度から、気を付けて」  クリスは、興味なさそうにマイケルから目を逸らすと、サイドテーブルにコップを置いた。  その時、医務室の扉が開いて、ダグラスが入って来た。 「社長!」  クリスが、喜んでベッドから降りようとするのを慌てて看護師が止める。 「ダメです」  ダグラスはそのやり取りに失笑した。 「失礼。クリス、具合はどうだ? 先生を困らせるんじゃないぞ」  クリスは、ダグラスに頭を軽く叩かれて大人しくなる。 「僕は大丈夫だよ。社長も退院出来たんだね」  クリスは、そう言って笑った。 「思いのほか元気そうで安心したよ」  ダグラスはそう言うと、マイケルに向き直った。 「クリスの面倒をみてくれてありがとう。怪我の具合はどんな様子だね?」 「怪我の具合?」  ダグラスの言葉に、マイケルは拳を握りしめた。  マイケルは、ここにクリスが運ばれて来た時の事を思い出す。  その時のクリスは、一見しただけで重症と分かる状態で、意識があるのも不思議な程だった。 「これだけの機械に繋がれていたら、どういう状態かはある程度、推察出来ると思いますけどね」  マイケルは、手を広げてクリスのベッドの周りをぐるりと見回した。 「大体こんな子供にあんな大怪我をさせるなんて一体どういうつもりなんですか? クリスはここ数日、意識混濁状態で(ほとん)ど眠って過ごしてましたよ!」  マイケルが、大きな声を出してダグラスに突っかかるように説明する。  クリスは、それを阻止するように、マイケルの(ほほ)を手の甲で叩いた。 「うるさいよ」  クリスの目が一瞬殺気を帯び、マイケルはその場に凍りつく。  ダグラスは、クリスの様子を窺いつつ、マイケルに弁明する。 「それについては私も本当に反省している。クリスにはすまない事をしたと思っている」  今のクリスには、いつもと変わったところは一つもなかったが、さっきは明らかに様子が違っていた。  クリスは、会社の授業を受けて来たのだから、体術をはじめとする様々な技術を体得している。  だから、先程のような事が出来たとしても、なんらおかしい事ではない。  しかし、ダグラスははじめて、クリスの心に内在する闇の一端を見た気がした。 『私がクリスをそうさせたんだ』  ダグラスの心がゾワゾワとした物に包まれる。  クリスは、その心中を察したかのように、ダグラスの(そで)を掴んで不思議そうに首を(かし)げた。 「どうしたの? 社長はなにも悪くないよ?」  そこへ、扉が開いてお(ぜん)が運ばれて来た。 「私は少し先生と話をして来る。クリスは食事をしているといい」  ダグラスは、そう言ってクリスの頭を軽く叩いた。  ダグラスは、クリスの容態(ようだい)を聞き、マイケルがあれ程までに怒った理由が分かった。 「全て私の責任だ」  ダグラスは、(ひたい)の前で手を組んで(うつむ)いた。 「なんであんな怪我をするような事をさせたんですか!」  マイケルの問いに、ダグラスは苦しそうに声を絞り出した。 「社の機密事項だ。教える事は出来ない」  しかし、マイケルは更に続ける。 「そもそもあの子は何者なんですか? 第一こんなところにいるような年齢ではないでしょう? 社長の愛人だという噂ですが、それとなにか関係が……」 「最重要機密だ」  ダグラスは、マイケルの言葉に被せるように強く言い切った。 「それに、こんなお喋りな医者は我社には必要ない。これ以上詮索(せんさく)するようなら、こちらとしても厳しい対応を取らざるを得なくなる」  ダグラスは、鋭い目でマイケルを見た。 「君は自分の仕事だけしていればいいんだよ」  マイケルは、恐怖のあまり、椅子から滑り落ちそうになった。 「わ、分かりました」  そして、ダグラスは、医務室を出ると、そのまま執務室に向かった。

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