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第二十一話

 ダグラスは、午後になっても、昨夜の余韻(よいん)が消えなかった。  仕事中は、クリスの事を考えないようにと思っていたが、手が空くとつい考えてしまう。  ダグラスは、やっと自分の気持ちと向き合う事が出来た。  クリスは、ダグラスを逃げられないようにしていたと言った。  そんな事が出来るとは思えないが、或いはクリスなら出来たのかもしれないとも思う。  しかし、例えそうだったとしても、それはただのきっかけに過ぎなかった。  クリスと過ごし、その心に触れ、そうして(つちか)って来た思いに嘘などある(はず)がない。  そして、クリスとの関係を()いる気持ちなど、今のダグラスには一切なかった。 『私はいつからクリスを愛していたんだろう』  ダグラスが考えていると、執務室のインターホンが鳴った。 『社長、後一時間で打ち合わせのお時間です』  秘書官に呼ばれ、ダグラスはそれ以上考えるのをやめた。 「分かった。すぐ準備をする」  前日の事もあり、クリスは今日一日仕事が休みとなった。  そして、十三時頃には精神科医から通信が入る事になっている。  クリスは、時間より前に昼食を終えると、食器を下げて貰うよう連絡した。 「失礼します」  程なくして世話係が来て、食器を下げて行った。  世話係は仕事の間中、クリスの方をチラチラと見てくる。  あれだけの騒ぎを起こしたのだ。  かん口令(こうれい)が敷かれているとは言え、身近で世話をしている者にはバレている。  クリスは、いつもの椅子に座り、ぼんやりとしながら着信を待った。  流れる音を消そうかと考えたが、どうせなにも話す事はないだろうと思い、付けたたままにしておく事にした。  クリスが待っていると、十三時ちょうどに、精神科医から着信があった。 「はい」  通信に出ると、画面に、メガネをかけた気弱そうな男が映し出される。  しばらくの沈黙の後、男は挨拶して自分の名を名乗った。 『はじめまして。精神科医のヴィクター・ラスキンです。クリス君で間違いないですか?』 「はじめまして。はい、そうです」  ヴィクターは、画面に映し出された少年の美しい容貌に息を飲んだ。  思わず見惚れて言葉を失ったが、しばらくしてから慌てて挨拶をする。  相手の声は、音の洪水にかき消されてよく聞こえなかったが、どうやら患者のクリスで間違いないようだった。 「もし、よければ、音を消して(もら)っても構いませんか?」  クリスは面倒臭そうにしていたが、言われた通りに音を切った。  そして、ヴィクターが質問するより早く、クリスの方から話しかけて来る。 『僕が、診察して貰う事になった理由は聞いてるの?』  クリスに問われ、会社側から説明された事を告げる。 「自殺しようとしたと聞いています」 『あ、それは言っていいんだ』  クリスは、ボソリと呟いた。  ヴィクターには、言葉の意味が分からなかったが、()えて聞こうとは思わなかった。  それより、クリスがいきなり確信をつく話をして来たので、その先を聞いてみる事にしてみる。 「どうして、死のうと思ったんですか?」 『なんだろう。死にたかったからじゃないかな』 「では、何故(なぜ)、死にたくなったんですか?」  クリスは、視線を宙に漂わせた。  ヴィクターは、その気だるげな表情に見入ってしまう。 『さあ。つらかったんじゃないかな』  クリスは、他人事のように言う。 「なにかつらい事があったんですね。なにがあったんでしょうか?」 『死にたくなるような事じゃないかな』  クリスとの会話は、ずっと同じ事の繰り返しで(らち)が明かない。  自分から話を振ってきたのに、クリスは答える気はもともとなかったようにしか思えない。  ヴィクターは、不毛な会話をやめて、他の質問に変える事にした。 「じゃあ、クリス君の事をあまり知らないので、いくつか質問してもいいですか?」 『会社から貰ったデータにはなんて書いてあるの?』  クリスは、退屈そうに画面から顔を(そむ)ける。  その横顔も、ため息が出る程、美しかった。  代理業社に来たのは八歳の時。  家族構成は不明。  十一歳を過ぎてから正式に社員となる。  現在十二歳。  他に記されているのは、超記憶症候群(ちょうきおくしょうこうぐん)という事と、恐ろしい程、高いIQの数値だった。  ヴィクターは、頭を振ると、クリスにそのままを伝える。 『そう。じゃあ僕から話す事は何もないよ』  クリスは、そう言って口を閉ざした。  しかし、このままでは診察にならない。  ヴィクターは、クリスがここに来る(まで)の事を質問してみた。  クリスは、考えていたようだが、しばらくして口を開く。 『毎日、誰かに犯されてた』  ヴィクターは、クリスの容貌から考えて、本当の事なのかもしれないと思う。  しかし、真偽(しんぎ)の程が分からず、ヴィクターは返答に困った。 「ええと……。それはいつからですか?」 『物心ついた時から』 「それは、どんな状況で?」  その質問に、クリスは真っ直ぐにヴィクターの目を見て答える。 『聞きたい?』 「教えて貰えるなら」  ヴィクターの言葉に、クリスは挑発的に笑う。 『どこから聞きたい? 言って貰えたら答えるけど』  クリスの質問の意味がよくわからず、ヴィクターは思わず聞き返す。 「どこからとは?」 『そのまんまだよ。僕が何歳の何月何日の事が聞きたいの?』  ヴィクターは、クリスの言葉を聞いて驚いて目を見開く。  確かに、データに「超記憶症候群」と書かれてはいたが、にわかには信じられなかった。 『覚えているんですか?』  ヴィクターは半信半疑で尋ねる。  それに、クリスは、カメラを見て笑う。 『誰にどうされて、僕がなにをしたかまで鮮明に』  クリスの笑みは、ゾッとする程、妖艶(ようえん)だった。 「つらかったでしょう」  ヴィクターは、クリスに目を奪われたが、なにも考えないようにして、問診の結果を端末に打ち込んで行く。 『その時は、別に』 「ではつらくなったのは、いつからですか?」 『多分……』  今まで素直に受け答えしていたクリスが、言い(よど)んで(うつむ)いた。  黒髪の隙間から、華奢な白いうなじが見える。  ヴィクターは、思わず息を飲んだ。 「誰にも言いませんから、大丈夫ですよ?」  ヴィクターは、クリスから目を逸らすと、精一杯優しそうな声で言った。 『安いね、ヴィクター』  そう言うと、クリスは顔を上げて頬杖(ほおずえ)をついた。  艶やかな黒髪が頬にかかる。 『僕は、すぐに他人を誘って体の関係を持とうとする』 「その時もそうだったんですか?」 『そう。僕が誘った。だからなにもつらくない』  クリスは、挑発するようにヴィクターを見た。 「それは、どうしてですか?」  ヴィクターは、クリスの視線から逃れるように横を向く。 『相手を見たらね。この人は誘いに乗るかどうかすぐに分かる。どうやったら相手がその気になるかも全部だ。だから落とすのは簡単だよ。今、ヴィクターにしてるみたいにね』 「どういう事ですか?」 『いつから僕をそういう目で見てたの?』 「そういう……とは」 『僕のうなじはどううつった?』  ヴィクターは動揺する。 「なにを言っているのか分かりませんね。大人をからかうのは……」 『誰にも言いませんから大丈夫ですよ?』  クリスは、ヴィクターの言葉に被せるように言った。  それは先程、ヴィクターがクリスに言った言葉だった。 「では話を戻しましょう」  ヴィクターの(ひたい)に汗が(にじ)んだ。 『どこまで戻すの?』 「つらくなったのは、いつからですか?」 『さあ? 僕にはつらい事なんてなにもないんじゃないかな?』 「でも、犯されていたんですよね?」 『僕が誘ったんだから、つらい筈がないよ』  クリスは、そう言って髪をかきあげた。 「なんで誘ったんですか?」  ヴィクターは、自分が質問をしている筈なのに、クリスに誘導されている気がして仕方がなかった。 『なんでだろう? やりたくなったからじゃないかな?』 「それは、どういう……」  クリスは、誘うように微笑んだ。 『今もそういう気分だしね』 「それは……」  ヴィクターは言葉に詰まった。  それに、クリスがたたみかけるように告げる。 『してあげるって言ってるんだよ。ヴィクターが望むなら、画面越しにね』  この時、ヴィクターは、軽く笑って断ればいいだけの話だったのだが、何故かそれが出来なかった。  クリスは、そんなヴィクターを見て、(あざけ)るように言う。 『なに? 本気にしたの? 僕はヴィクターを襲ったりしないよ。それとも襲われたかったの?』  ヴィクターは、なにも答える事が出来なかった。 『薬だけ出しておいてよ。なるべく強いのでお願い』  ヴィクターは、それに頷(うなず)くだけで精一杯だった。  ヴィクターから見て、クリスは歪んでいるとした言いようがない。  治療が必要なのは明らかだ。  しかし、ヴィクターはこれ以上自分の心に踏み込まれるのが怖くて何も言えなかった。  クリスは、ヴィクターとの通信を切ると、ベッドの上に寝転がった。  腕を天井に伸ばして、手の甲を見つめる。  しばらくすると、薬剤師が来て薬を置いて行った。  その間も、クリスはずっと自分の手を見つめていた。 「飲んだら少しは変わるかな?」  クリスは、だるそうに起きあがると、サイドテーブルを見る。  薬の袋を持つと、クリスは水をくみに立った。  そして、薬を手のひらに出し、それを水で流し込む。 「薬、なくなったらどうするんだろう?」  出された薬は、たったの一週間分だった。  またヴィクターと話さなければならないのかと考えて、クリスは少し苛立(いらだ)ちを覚えた。 「自分の心に踏み込まれるのは嫌なくせに、他人の心に踏み込もうとするのが間違いないなんだよ」  そう言って、クリスはサイドテーブルにコップを置いた。

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