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第二十六話
その日の朝、頼んでいた紙のノートが支給された。
クリスは、ノートを仕事机に置くと、スクリーン前の定位置に座って今日の仕事を確認する。
相手先と連絡を取る案件もなく、ざっと見た感じだと、全体的に簡単な仕事ばかりのようだった。
これなら、昼から仕事をしても間に合うだろうと、クリスは、今日届いたばかりのノートを手にする。
そして、その表紙に『ダグラス・アーサー社長へ』と書き記した。
クリスは、夕方から仕事の打ち合わせで、ダグラスと食事に行く事になっている。
先方は、昔からダグラスが懇意 にしている、エンパイア銀行頭取モーリス・ブライトマンだ。
ダグラスの話では、モーリスは誠実そうに思えるし、データからも、その人柄が窺 えた。
クリスは、実際にモーリスを見て、どう言う人物か確かめたいと思っているし、ちょうど先方も会いたいと言っている。
それで、クリスは、モーリスに合わせてくれるようダグラスに言うのだが、なかなか首を縦に振らない。
しかし、パーティに参加した今、断る理由はないだろうと、クリスはダグラスに詰め寄った。
ダグラスは、パーティでの態度を咎 めるが、それでもクリスは引かない。
結局、ダグラスは、押し切られる形で、クリスを打ち合わせに同席させる事にした。
今回の打ち合わせは、エンパイア銀行所有のレストランで行われる。
格式のあるレストランなので、いつもの打ち合わせよりもきちんとした服装で行く必要があった。
そこで、ダグラスは少しだけ上等なスーツを。
そして、クリスは、白いシャツの上にジャケットを羽織 って、ネクタイを締めた。
前回のパーティの時よりラフとは言え、クリスはこういう格好をすると、いつも以上に美しく見える。
ダグラスは、しばらくクリスに見惚 れていたが、すぐに気を取り戻すと、その唇に軽く口付けた。
「行こうか」
「そうだね」
クリスは答えながら、目を細めてダグラスを見た。
ホテルにつくと、ダグラスは突然ロビーで呼び止められた。
「ダグラス!」
その声に振り向くと、そこには二十代くらいのブロンドの髪をした青年が立っていた。
「ダグラスじゃないか。久しぶり。仕事が忙しいって言っていたけど、元気にしてたかい?」
それに、ダグラスは軽く手を上げて挨拶をする。
「ああ。久しぶり」
ダグラスは、そう言うと、そのまま素通りしようとする。
「社長?」
クリスは、それを見ると、なにか言いたげにダグラスの袖を引っ張って、青年に軽く会釈 をした。
初対面ではあるが、クリスの頭の中には、既 に青年のデータがある。
セドリック・ブレナン。
二十七歳。
ダグラスの元愛人だ。
「この子は誰だい? まさかダグラスの隠し子って事はないだろうけど」
セドリックは、クリスを訝 しそうに見る。
「彼は、私のビジネスパートナーだよ」
ダグラスは、そう言ってクリスの方を見た。
「はじめまして。クリスと言います。うちの社長とはどういうご関係ですか?」
クリスは、何も知らない振りをして尋 ねたが、セドリックは「社長」と言う言葉に驚いたらしく、挨拶も忘れて、ダグラスの顔を見る。
「社長? 会社役員とは聞いていたけど、社長だったんだね。なんていう会社なんだい?」
しかし、聞かれたところで「代理業社」とは答えられないし、そもそも、もう別れているのだから、教える必要などない。
ダグラスは、腕時計に目をやってから、セドリックの方を見る。
「今から仕事の打ち合わせがあるんだ。悪いけどこれで失礼するよ」
「後で少しだけでも話せないかな?」
「私は話す事は何もないよ。悪いがもう行かないといけない」
ダグラスはそう言うと、モーリスの待つレストランに向った。
「あの人、社長の元愛人でしょ?」
クリスは、ホテルのエレベーターに乗ると、ダグラスに聞いて来た。
それに、ダグラスは、エレベーターの階数表示を見ながら答える。
「ああ、そうだ。どうせクリスの事だ。聞くまでもなく知っているんだろう?」
「セドリック・ブレナン。二十七歳。株式会社ブレナン証券社長の御曹司 。現在の役職は専務。同族企業の為 、将来は社長の座が約束されている」
クリスは、何でもない事のように答えた。
「詳しいな」
「話をしなくてよかったの?」
心配そうに尋ねるクリスに、ダグラスがため息混じりに言う。
「もう別れたんだ。話す事なんてないだろ」
しかし、クリスはまだ気になるらしく、ダグラスの方を窺っている。
ダグラスが、クリスに何か言おうとした時、エレベーターが目的の階に到着した。
「クリス」
ドアが開くと、ダグラスは片手で押さえ、クリスに先に行くように促 した。
「ありがとう」
クリスは、礼を言ってから、困った顔で笑う。
「でも、それは立場的に、僕の役目だと思うんだけど」
ダグラスは、指摘されて苦笑した。
レストランに着くと、VIPルームに案内された。
中に入ると、モーリスが笑顔で立ち上がり、ダグラスに握手を求める。
「ダグラス、久しぶりだな。怪我をしたと聞いたが、もう体は大丈夫なのかい?」
ダグラスも、モーリスの手を取り笑顔で答える。
「心配してくれてありがとう。おかげで、もうすっかり元気だよ」
挨拶を終えると、ダグラスはクリスを紹介する。
「こっちが、うちの社員のクリスだ」
クリスは紹介されて、笑顔で手を差し出す。
「はじめまして、クリスです。ブライトマン頭取の事は、社長からよく伺 っております。お会い出来て光栄です」
モーリスは、笑顔でクリスの手を握る。
「はじめまして、クリス。君がダグラスの自慢の部下だね。世間で噂になっているけど、ダグラスが中々紹介してくれなくて焦れていたところだよ。こちらこそ会えて嬉しいよ。良かったら、私の事はモーリスと呼んでくれないか」
挨拶を終えると、モーリスが席を勧めた。
「まあ、座って話をしよう」
三人は、ホールスタッフに椅子を引かれて席に着いた。
「飲み物はどうする?」
「飲酒が許されるなら、私はワインで」
ダグラスは、そう言って笑った。
その言葉に、モーリスも笑顔で答える。
「もちろん大丈夫さ。今日は仕事の話は二の次だ。それで、クリスはどうする?」
モーリスが尋ねると、クリスはにこやかに笑みを浮かべて答える。
「アイスココアを」
ダグラスは、クリスの食前ドリンクの選択に苦笑する。
しかし、モーリスは特に気にならなかったようで、さらりと自分の注文をした。
「じゃあ、私はダグラスと一緒で、ワインを貰 うとしようか」
モーリスはそう言うと、ドリンクメニューをスタッフに手渡した。
ほどなくして、飲み物が運ばれて来た。
全員に飲み物が行き渡るのを見て、モーリスはグラスをあげる。
「では、出会いを祝して」
そう言って、三人で乾杯した。
その後は、軽く社会情勢などの話をしつつ、和 やかに談笑が進んで行った。
「クリスはきちんと躾られているんだな。うちの行員でもこうは行かないよ」
モーリスは、クリスのマナーの良さを褒 めた。
と言うより、モーリスはこれでもかと言うくらいクリスを褒めて来る。
「ありがとうございます。会社で習いましたので」
クリスは、にこやかに応じる。
少ししか話してはいないが、クリスにもモーリスの人柄の良さが分かった。
あまり、プライベートでの付き合いをしないダグラスが、懇意にしているのも頷 ける。
会話が落ち着き、そろそろお開きにしようかという頃、クリスが思い出したように口を開いた。
「そういえば、モーリスはランドン貿易をご存知ですか?」
突然の話に、モーリスは戸惑う。
「名前くらいは知っているが、それがどうしたんだい?」
クリスは、そこで少し声をひそめる。
「近いうちに経営不振になる事が予想されますので、もし融資の話が出ているようでしたら、取りやめにする事をお勧めします」
「いきなり不穏な話題になったね」
「D国に直に内乱が起きます。ご存知かも知れませんが、ランドン貿易はD国との取引が八〇パーセント以上を占めます。そうなると、ランドン貿易は内乱の煽りをまともに喰らう事になると思いますよ」
クリスはそう言って、ココアを飲み干した。
情報の所在は分からないが、モーリスにはクリスが根拠のない話をしているとは思えなかった。
それに、内乱の話が本当なら、事はランドン貿易だけにとどまらないだろう。
『ひとまず、帰ったら融資の件について確認してみるか』
モーリスは席を立つと、クリスに握手を求めた。
「心にとめておこう。有益な話をありがとう」
「楽しい席にお招き頂いたお礼です。お役に立てると嬉しいです」
クリスは、にこやかに笑ってモーリスの手を取った。
ロビーに降りると、セドリックがソファに座って待っていた。
「ダグラス!」
セドリックは、ダグラスを待っていたのだろう。
姿をみつけると、急いで近寄って来た。
しかし、ダグラスは、軽く会釈だけすると、足早に立ち去ろうとする。
「社長?」
クリスは、ダグラスの態度を見て、不思議そうに問いかける。
「待ってたみたいだけど、良かったの?」
「お互い納得して別れたんだ。今更、会話をする必要もないだろう」
そう言うと、ダグラスはクリスの背を押して、迎えに来た車に乗り込んだ。
「出してくれ」
ダグラスの合図で車が発車すると、運転席との間に仕切りが下りた。
「社長は、ああいう人が好みなの?」
「もう別れたんだ。関係ないだろう」
クリスは、ダグラスに言われても、セドリックが気になって仕方がない。
「金髪で背が高くて羨ましい」
クリスはそう言って、自分の前髪を引っ張る。
「僕とは正反対だ」
クリスは心配しているようだが、ダグラスには、セドリックに劣っている点があるとは思えなかった。
容姿も頭脳も全て、クリスは基準を遥かに超えている。
ダグラスは、クリスには黒髪が似合っていると思っているし、気になるならば染めればいいだけの話だ。
何か悩む事があるとすれば、クリスの年齢が、ダグラスの好みよりも低いと言うくらいだろう。
「大丈夫。そんなに焦らなくても、すぐ大きくなるさ」
ダグラスは、いつまでも気にしているクリスの頭を軽く叩く。
「でも、僕はそんなに待っていられない」
そう言って、クリスは俯 いた。
「気にしなくて大丈夫だ。クリスはそのままで充分魅力的だ」
クリスは、それには答えず、黙って自分の前髪を弄 び続けていた。
ダグラスは、クリスの気分を変える為に、食事会の時の話題を振ってみる事にした。
「クリス。そんな事より、さっきの融資の件について教えてくれないか? あれはどういうからくりだ?」
クリスは、ため息をついて、シートにもたれかかる。
「ランドン貿易の融資の話は、とある情報筋から聞いて知っていたんだ。それに、内乱が起これば、他にも影響の出る取引先があるだろうから、モーリスに損をさせない為に、ちょっと食事の話題にさせて貰っただけだよ」
「ちょっと話題にすると言うような軽い話ではないと思うが」
ダグラスは、クリスの言葉に苦笑する。
「それに、内乱が起こると言う情報はどこから仕入れたんだ?」
クリスは、ダグラスの質問に気怠 そうに答える。
「内乱については、僕がD国政府の不正の証拠を反政府組織に売ったんだ。反対勢力に情報を流して、大統領の失脚 を狙 うだけでも良かったんだけど、盤面 に以前お世話になった会社が上がって来たから、ちょっと筋書きを変えてみたんだよ」
「もう少し、詳しく教えて貰ってもいいか?」
ダグラスの問いにクリスは頷いた。
「不正の証拠はエイミーに頼んで手に入れたんだ」
「エイミー?」
ダグラスは、誰の事か分からず首を傾 げた。
「ああ。エイミーはリチャード警備の社長令嬢だよ。エイミーとは、たまに文字チャットで話をしているんだけど、僕がダメ元でハッキングの依頼をしたら、喜んで引き受けてくれたんだ」
クリスは、前髪を弄びながら答えると、事もなげに続ける。
「ちなみに、ランドン貿易はあの時僕を誘拐した会社だ。取引先は知っていたから、内乱が起これば経営不振になるのは簡単に想像出来た。だから、D国の大統領失脚の筋書きを変えてD国に内乱を起こさせ、ランドン貿易の経営を悪化させる事にした」
そこまで言うと、クリスは口元に酷薄 な笑みを浮かべた。
「向こうが、先に喧嘩を売って来たんだ。自業自得だよ」
クリスが吐き捨てるように言った言葉に、ダグラスは久しぶりに背筋の凍る思いをした。
もしかしたら、表に上ってないだけで、他にもクリスが策謀 を巡らせている事があるのかも知れない。
ダグラスは改めて、絶対にクリスを敵に回してはいけないと思い知らされた。
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