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第7話 突然の訪問

 静寂の中、カチャカチャと軽快にキーボードのタイプ音が響く。  市五郎はすっかり妄想の世界へ入り込んでいた。    昨晩の人間ウォッチングで見てしまった結城の真の姿に衝撃をくらうと同時に、激しく妄想を掻き立てられ、家に辿り着くなり市五郎は頭の中の浮かんだイメージを文字に起こすべく、キーボードに打ち込んだ。そこから主人公のバックボーンを調節し、世界観を組み立て気がつけば丑三つ時も越えてしまっていた。そこでいったん打ち切るも、朝目覚めてもなお執筆意欲は引き続き市五郎を掻き立て今に至る。  結城をモデルにした主人公の物語は、いつにも増して市五郎を夢中にさせた。妄想はとめどなく溢れ、それに置いてきぼりにならないよう必死に後を追う。その時、ピンポーンと呼び鈴が鳴り現実へ引き戻された。手を止め、壁の時計へ目を向ける。  午後三時。いったい誰だろうと市五郎は首を捻った。訪問する人間など思い当たる節もない。  市五郎は静かに立ち上がった。書斎兼、寝室にしている十四畳の和室を抜け、廊下から玄関を見る。玄関のガラス戸の向こう側にはスーツのシルエット。上着を手に紙袋を下げている。新聞の勧誘員にも見えない。まごまごしていると、またもやピンポーンと呼び鈴が鳴った。  仕方なく玄関まで行くが、まだ鍵は開けない。市五郎にとって、誰ともわからぬ相手に門戸を開けることなどあり得ないのだ。  おそるおそる、ドア越しに声を掛ける。 「はい」  不信感を抱きつつ発した声に、穏やかな声が返ってくる。 「突然すみません。エーゼット出版の結城です」  思いがけない名前に市五郎の心臓が跳ねた。 「え……あ、ちょ、ちょっと待って下さい。今開けます」  ビックリしながら開錠しドアをガラガラと開ける。結城はハンカチで額や眼鏡の淵を持ち上げ、汗を拭きながらペコリとお辞儀をした。 「こんにちは」 「……こんにちは……」  出版社の人間が家を訪ねてくるのは初めてだった。市五郎は鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、ただただ結城を見つめた。 「連絡もなく、すみません。ちょっと仕事で近くに来たもので、この間のお土産のお礼に差し入れを持ってきました。これ、よかったら食べて下さい」  結城は手に持っている紙袋を差し出した。 「あ、どうも……わざわざ、すみません。あ、あの、良かったら、その、時間に余裕があるなら、上がって涼んでいって下さい」 「えっ」  緊張で喉がかさつき、うまく声が出ない。ひどくぶっきらぼうなトーンだ。これでは不機嫌だと勘違いされてしまう。市五郎が焦りを感じた瞬間、結城の表情がぱあっと花開くように華やぐ。その可憐な表情に市五郎の胸もドキッと高鳴った。  なんて可愛らしい。外の暑さがよっぽどきつかったのかな?  市五郎の様子に結城は照れたように視線を外し、今度はチラリと遠慮がちな視線を市五郎に向ける。 「あの、お仕事のお邪魔になりませんか?」  もじもじと、小さな声でお伺いを立てる。 「ちょうど休憩しようと思っていたのです」  市五郎は体を斜めにして、結城へ中に入るように促した。実際、玄関先は暑くてしかたがなかった。結城もここでは休めまい。 「本当ですか? よかった。助かります。今日はまたすごく暑くて」  ニッコリ微笑んで、ふと視線を落としゆっくりと市五郎へ戻す仕草は妙に艶っぽい。 「そうですよね。こんな日に外出なんて自殺行為です」 「ええ。本当に」  市五郎は心からの本音で返したのだが、冗談と思われたらしい。結城はくすりと小さく笑い、再びお辞儀した。 「それではお言葉に甘えてお邪魔します」 「どうぞ。スリッパなど気の利いた物はないので、そのまま上がって下さい」 「お気遣いなく。では、お邪魔します」  丁寧な三度目のお辞儀をして、結城は靴を脱ぎ玄関かまちに上がった。それからクルリと玄関を振り返り、靴を揃え端へ寄せる。細くしろいうなじが眩しかった。  廊下を真っ直ぐ行くと茶の間の戸がある。茶の間と書斎は襖一枚で隔ててあるだけなので普段市五郎はそこから出入りしているのだけれど、そこを開けると奥の台所まで見えてしまう。それはなんとなく恥ずかしい。なので、客間へ直接繋がっている廊下を通って結城を書斎へ案内した。  そちら側の廊下は縁側と一体となっていて、庭を眺めることもできる。庭石と松くらいしかない寂しい庭だが、草刈りだけでもしておいて良かったと心から思った。 「立派なお家ですね」  市五郎の後ろで、結城の感心したような声が聞こえた。 「古いだけですよ。どうぞ」  襖を開けた途端、冷気が廊下へ流れ出た。冷えた空気にホッとする。 「あぁ……涼しい」  結城は目を瞑り、冷気を全身に浴びるように清々しい表情を見せる。 「なにしろ一人暮らしで、片付いていませんが、ラクにして下さい」  家具調の長方形の大きな座卓には、ノートパソコンが置いてある。  この机が書斎机であり兼、客間の机でもある。ノートパソコンを片付けるわけにもいかず、謝るしかない。市五郎は上座のほうにいつも座っているため、さらに申し訳ないが、結城を下座の座布団へ案内した。 「ありがとうございます。僕の部屋よりずっと綺麗ですよ。あ、これジェラートです。保冷剤をたくさん入れてもらったので大丈夫だと思うんですが、冷凍庫へ入れてもいいですか?」 「ジェラート……」  昨晩イタリアンレストランで見た結城を思い出し、市五郎は動揺した。  いきなりの訪問に舞い上がり、今のいままですっかり忘れていたのだ。  今、こんな毒もなにもない、爽やかな笑顔で私を見ているけれど、昨晩の結城さんはあの男を手玉にとり、ホテルで後ろから……何度も……何度も。  妄想が市五郎の脳内で再び暴れ出す。

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